9 帰城した近藤景春と杜若 

 一方、桶狭間から帰され、沓掛城に向かっていた近藤景春とその家臣達は、ようやく城の門が見えるところにたどり着いた。
 門は大きく開けられ、門の前に白い着物に白い袴の白装束姿の杜若がいた。近づくと髪を後ろに束ね、白いはちまきをしていた。長刀を抱え、脇差しを差していた。
 近藤景春は駆け寄り。
「杜若よ、戻ってきた。何が何やら、信長様が・・・」
 杜若に言いかけたが。杜若はその言葉を遮って言った。
「信長様が今川義元を討ち取ったことは、この者に聞いて知っております。」
 後ろに馬のくつわを取った小者が控えている。物見に出していた者が、馬で自分たちより先に報告したのであろう。小者の後ろには数名の武者と妻のなつが控えている。それらは近藤一族の者である。
「ことの子細は後ほど説明します。今からはわたしの言うように動いてください。よいですね。」
 杜若の毅然とした物言いに、近藤景春は思わず頷いた。
「すでに、城の者達は後ろにいる一族の者以外は、門番に至るまで家に帰してあります。見張りに立っていた者もすぐに家に帰りなさい。父上に従っていた者は一族の者ゆえ残りなさい。さあ一族の者以外は家に帰って戸を閉め、指示があるまで待ちなさい。心配はいりません。すぐに指示がありますから。
 一族の者は城を立ち退きます。東に半里(2キロメートル)行ったところの沼地の向こうに丘陵地があります。そこに身を隠します。
 城は空にして、門も開けておきます。後は信長様にお任せします。今川方に付いた近藤一族は城に残っていてはなりません。さあ急ぎましょう。母上は馬に乗りなされ。他の者は徒にて参りますぞ。さあ出発なされ。」
 杜若の号令で、近藤一族の者達は東に向かって歩き出した。
 残った者達は深々と礼をして見送った。
 すぐに境川にさしかかった。桶狭間ではすさまじい風雨であったが、局所的なものであったのか、水かさも増えておらず難なく渡ることができた。
 しばらく行くと沼が見えてきた。すでに杜若は咲き終えている。沼には4艘の舟が用意されていた。その4艘の舟に分乗し、沼を渡って灌木の茂った丘陵地の岸に下りた。
 見張りの者を残し、杜若に従って雑木林の中にはいると、そこには新しい小屋があった。杜若はその小屋に入り、窓を開けて、
「さあ、お入りください。」
 と小屋に入るように勧めた。
 皆は言われたように小屋に入った。小屋は結構広く、土間と板の間になっていた。板の間にはいろりがしつらえてあり、夜具が入っていると思われる押し入れもついていた。土間には棚が付いていて、そこには米や野菜などの食料も用意されていた。小屋というよりは家といってもよいものだった。
 皆は「なんと」と言いながら小屋の中を見回した。
「お座りください。」
 と杜若に言われいろりの周りに皆が座った。
 ようやく一段落し、近藤景春は杜若に向かって
「杜若よ、子細を説明してくれるとのことであったな。さあ、話してくれ。」
 と言った。他の者も皆杜若姫の説明を待っていた。
「はい、誠に申し訳ございませんでした。わたくしは沓掛の人たちを、近藤家の皆様を、そして父と母を裏切り、信長様が今川義元を討ち取ることに手助けいたしました。
 こうなることを考え、この小屋も用意しました。しばらくはここで過ごすことができます。まことに申し訳なく思っています。お許しください。」
 杜若は両手を突いてわびた。
「な、ななんと。」
 一族の者は仰天したが、近藤景春は、やはりそうであったかと思った。
 その時、見張りに立っていた者が叫んだ。
「騎馬が一騎、こちらに向かって来ます。」
 皆が驚いて小屋を出て、沼の岸辺に出た。向こうを見ると、一騎の騎馬がどんどん近づき、何か叫んでいる。沼の縁で馬を下りて武者が大声で叫んだ。
「梁田政綱でござる。近藤景春殿、織田信長様からの下知状を授かって参りました。出て参られい。」
「すぐに舟を一艘使わしなさい。」
 の杜若の命令で、舟が沼の対岸に向かい、梁田政綱を乗せて帰ってきた。
 沓掛の者は岸辺で手を突いて、梁田政綱を迎えた。
 梁田政綱は、皆の前に立つと、おもむろに下知状を開き読み上げた。
「今川義元は討ち取った。沓掛は信長の支配するところとなった。近藤景春以
下、一族及び家臣の者すべての領地はこれを安堵する。織田信長」
 下知状の内容を聞いた沓掛の者達は
「えっ、おお」
 と驚きと安堵感から思わず声が出た。そして互いに顔を見合わせた。皆のざわめきが収まったところで、梁田政綱が一番後ろに控えている杜若に、
「お方様」
 と呼びかけたが、沓掛の者達が怪訝そうな顔をしているのを見て、
「杜若様はすでに織田信長様のお方さまになられていらっしゃいます。」
 と説明した。
「おお」
 またしても沓掛の者達は声を発し、杜若を見た。その中で母親のなつは温かいまなざしで杜若を見ていた。
「お方様、信長様が『ことがすべて片付いたならば、迎えをよこすから清洲にこい。』と伝えてくれとおっしゃっておられました。」
 梁田政綱の言葉に、
「信長様の沓掛に対する温情、まことにありがたく感謝申し上げます。謹んでお受け申し上げます。」
 杜若は両手をついて礼を述べた。近藤景春もほかの者も礼を述べることをしてなかったことに気づき、あわてて皆両手を付き、口々に「ありがとうございます。」と礼を述べた。
 ここ数年は来ることがなかったが、以前はたびたび沓掛城に来ていた梁田政綱にとって、近藤景春だけでなく、ここにいる一族の者とも親しくしていた。涙を流している者もいる。ほんとによかったと梁田政綱自身も心からそう思った。
 ふと目を上げると、杜若が立ち上がって後ろを向くのが見えた。どこかへ行くのかなと思って見ていると、杜若の体が前のめりになったかと思うと、がくっとからだが揺れて、ふらふらと沼の岸辺に寄っていく。
「お方様」
 思わず梁田政綱が叫ぶと、皆が後ろを向いた。杜若は仰向けに沼の中に倒れていった。倒れていく杜若の胸から赤い血が噴き出していた。手には逆手に握られた脇差しがあった。
 白装束は真っ赤に染まり、倒れ込んでいった沼も水しぶきが上がった後、波紋と共に水面が赤く染まっていった。
 皆あっけにとられていたが、近くにいた者たちが「ひめー」と叫びながら沼の中に飛び込み姫を抱き上げた。岸に横たえたがすでに命はなかった。
 皆が杜若を囲んで「姫様」と口々に呼びかけている中で、杜若の父である近藤景春は杜若が沼に倒れ込んでいくのを見たが、立ち上がることもせず、正座した膝の上のこぶしを握りしめている。母親のなつは両手を合わせ祈っていた。
 梁田は二人を見て、杜若の自刃を予感していたのかもしれないと思った。杜若が握っていた脇差しを見ると、それは信長が愛用し、杜若に渡したものだった。
「殿、姫様のいらっしゃったところに、これが」
 と言って杜若のすぐ前に座っていた者が近藤景春に2通の書き物を渡した。その内の1通を近藤景春は開いて読み、読み終えるとそれを妻のなつに渡すと、目をつむって顔を上げた。
 目を開けると立ち上がって、梁田政綱に近づき、信長宛の書き物を捧げて言った。
「これを信長様にお渡し願いたい。杜若が信長様へしたためたものです。」
 梁田政綱が承知したと受け取ると
「信長様にお許しいただいたこと、誠にありがたく思います。しかしながらわたくしは杜若が自ら命を絶ったこの地にて、杜若の冥福を祈ろうと思います。幸い杜若が暮らせる小屋を用意してくれました。
 今夜は妻と二人きりで杜若のそばにいたいと思います。また野辺の送りも二人だけで静かに送ってやりたいと思います。これは杜若自身の願いでもあります。
皆の衆、まことにわがままを申しますが、どうかお聞き届け願いたい。
 梁田様にお願いがございます。一族の者を沓掛に連れ帰っていただけないでしょうか。お願いいたします。」
 近藤景春と妻のなつは並んで梁田政綱と一族の者に手をついて願った。
「殿」、「殿」
 と皆口々に呼びかけ、涙を流して頷いた。杜若を小屋の中に運ぶと、一族の者達は近藤景春の願いを受け入れ、梁田政綱に率いられて沓掛に帰っていった。

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1 桶狭間の戦いの謎
2 戦い前日
3 戦い当日
4 近藤景春の回想 
  「拳を突き上げる信長」
5 木下と梁田の回想
  「信長と杜若の再会」
6 大高城の松平元康
7 木下と梁田の回想(戦い後)
  「信長の戦略」
8 木下と梁田の回想(戦い後)  
  「杜若の策」
9 帰城した景春と杜若
10 信長勝利直後
11 一ヶ月後の岡崎城の元康
12 一年後の景春の隠居所

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