2 桶狭間の戦い前日

 高かった初夏の太陽もようやく沈もうかとする頃、今川義元の本陣が到着した。すでに入城していた松平元康をはじめとして、軍議に参加する武将が城門に並んで今川義元を迎えた。
 ここは近藤景春の居城沓掛城(豊明市)である。尾張と三河の境を流れる文字通りの境川を見下ろす丘の上に立つ城である。西に3キロメートルの所を東海道が通っている。
 世に名高い織田信長が今川義元を討ち取った、桶狭間の戦いの前日であった。東海道を駿河から西に進んできた今川義元が池鯉鮒(知立市)から東海道を外れ、鎌倉街道を通って沓掛城に入城したのであった。
 輿から自分の体をもてあますように現れた今川義元は、その脂ぎった顔に大粒な汗を浮かべていた。出迎えに大様に答え、居並ぶ武将の中心にいる松平元康(後の徳川家康)に、
「元康、この度の織田との戦は、そちたち三河衆の戦ぞ、どのような働きをするかじっくり見させてもらおう。」
 と大声で呼びかけた。
 松平元康は一歩前に出ると片膝をつき、
「われら三河の者達、このたびは働き場をいただき、この上なき誉れと思うておりまする。ご期待を裏切らぬよう、命をかけて働きましょう。」
 と今川義元にも勝る大声で答えた後、
「我が後ろに控えますは、この沓掛城の近藤景春殿にございます。」
 近藤景春を今川義元に紹介した。近藤景春はあわてて両手をついて、
「近藤景春でございます。よくぞお越しいただきました。名誉に存じます。」
 とうわずった声で挨拶した。
 今川義元は太ったあごを突き出し、一瞥をくれただけで通りすぎていった。
松平元康は立ち上がると急いで今川義元を追いかけ、城内に案内した。他の武将もその後に続いて入城した。
 近藤景春は城主として自分が案内せねばならぬのではなかったかと思いつつ、他の武将の前に出ることもできず、最後に入城した。
 2時間後軍議が開かれた。松平元康は正面の今川義元と並んで座っている。近藤景春は末席についた。
 明日の戦の戦略が決定された。夜明け前に大高城の付城である鷲津砦を朝比奈泰朝が、丸根砦を松平元康が、それぞれ攻撃する。
 すでに両砦の包囲は完了していて、今川義元の攻撃命令を受けるだけになっていた。朝早くには落とすことができるであろう。
 2つの砦が落ちたとの連絡があり次第、今川義元は大高城(名古屋市緑区)に向かう。
 大高城は、ここ沓掛城から8キロメートルほど西にあり、2時間程度で到着できる。十分に昼前には入城できるはずだ。
 その後大高城を拠点とし、鳴海城(名古屋市緑区)の岡部元信と呼応して、鳴海城の付城の丹下砦、善照寺砦、中島砦を落とし、織田勢を尾張東部から一掃し、尾張東部を制圧することが確認された。
 その折、今川義元が大高城に向かう道案内と、道筋の見張りには土地に詳しい近藤景春があたる。そしてすでに手配りがされていることが松平元康より報告され、認められた。
 軍議が終わると、戦に備えて鋭気を養うために、宴が催されることとなった。酒が回り、宴が賑やかになってきたとき、
「おうい、近藤景春、沓掛には姫がいると聞いているが、その姫は鬼姫と呼ばれているそうだな、是非お目にかかりたいものだ。挨拶はないのか。」
 今川義元の大声が聞こえてきた。好色で知られる今川義元が一人娘の杜若(かきつばた)のことを言い出すのではないかとは思っていたが、娘の杜若が鬼姫と呼ばれていることは初耳であった。近藤景春はすぐに返事ができずにいた。すると。
「沓掛の鬼姫にございます。駿河、遠江の太守様にご挨拶申し上げます。」
 三つ指を突いた杜若が正面の今川義元に向かって言った。
「おお 鬼姫とはそなたか。これは驚いた。なんと美しい鬼よなあ。さあ、近こう寄れ。」
 今川義元の言葉に、杜若は立ち上がり、満座の中を臆することなく進む。
「おお」
 と言う声があちらこちらから聞こえる。
 鬼姫と聞いて、いかなる姫かと思っていると、鬼とは似ても似つかぬ美しいその姿に皆見入っていた。
 今川義元の前にくると今一度三つ指を突いて挨拶した。その振る舞いは優美であった。
「顔を上げい。」
 と言う今川義元の声が少しうわずっていた。
「名は何という。一献とらそう」
 今川義元が言いながら杯を差し出した。
「名は鬼姫です。不調法ですので、お断りします。」
 杜若はきっぱりと言った。
 駿河、遠江、三河の三か国を支配する今川義元が名を聞いても名乗らずに鬼姫と答え、「一献とらそう」と言うのにも、にべもなく断った。周りの者は息をのんだ。
 今川義元の目がつり上がり、顔が赤くなって、今まさに怒鳴ろうとしたその時、杜若が短冊を今川義元に渡した。短冊を見たとたん、今川義元のつり上がっていた目が丸くなり、やがてその目尻が下がった。
 今川義元はにやりと杜若を見て、
「恋しきに命をかふるものならば死はやすくぞあるべかりける(この恋しい気持ちと我が命を換えることができるなら、命を失う死のほうがずっとた易いものなのなんだなあ。読み人知らず)」
 とその短冊を大声で詠み上げ、
「ほほほ、古今とな。まずは何と激しい歌よ。確かに鬼姫にふさわしいわい。」
 と言い、少し考えた後、
「ひと目見し君もや来ると桜花今日は待ちみて散らば散らなむ (一目見たあなたが来るかどうかと、今日一日待ってみて、それでも来なければ、桜の花よ、散るなら散ってしまってもしょうがないな。紀貫之)」
 と歌を詠み、杜若姫の顔をのぞき込むようにした。
 すると間髪入れずに、杜若が
「めづらしき人を見むとやしかもせぬ我が下紐のとけ渡るらむ(たまにしか逢えない人に逢いたいのでしょうか、自分で解いたわけでもないのに、私の下紐は解けて待ち続けているようです。読み人知らず)」
 と返した。
「なんと、我が下紐のとけ渡るらむ、ときたか。うわっはっは。」
 満足そうに今川義元は笑った。
 すると杜若は手をついて挨拶をすると戻って行く。
 そこにいる者達は二人のやりとりの意味もわからず、あっけにとられて姫を見送った。
 その中で松平元康だけは、杜若から目をそらし、膝においた握り拳を握りしめていた。短冊の歌を今川義元が詠んでいるそのとき、杜若が今川義元の隣に座っている自分に鋭いまなざしを送ってきた。そのまなざしに目を合わせた瞬間、自分の心の奥までも見透かされたと思ったからである。
 杜若が近藤景春の前を通ったとき、近藤景春が何か言おうとしたが、杜若に手で制されて黙って見送った。
「近藤景春、鬼姫はたいしたものよ。歌に歌で答えられる者がこのような鄙びた地にいるとは。しかも下紐のとけ渡ると来たぞ。お主はよき娘を持ったものよ。あっはは。」
 都かぶれの今川義元は得意そうに大声で笑った。
「はっ。」
 近藤景春は訳も分からず平伏した。
 宴はその後すぐに終了した。近藤景春が今川義元を寝所に案内しようとすると
今川義元のそばにいた松平元康が
「沓掛殿、殿の寝所は新たに建てた西の座敷であろう。わしが案内する故、そなたは、帰られる方々をお見送りくだされ。」
「さあ、殿こちらへ」
 と言ったとき、歩き出した今川義元が
「おい、元康、刈谷の水野信元はどうなっているのだ。」
 と不機嫌そうに言った。
「叔父のことは、わたしが・・・・」
 と松平元康が答えているのが途中まで近藤景春に聞こえた。
 刈谷城(刈谷市)の水野信元が何だというのだろうか、そういえば軍議にはいなかったなと近藤景春は思った。
 刈谷の水野家は沓掛の近藤家とよく似た境遇である。三河と尾張の境を流れるのが境川、その上流の尾張側に沓掛城があり、河口の三河側に刈谷城があった。常に東の三河の勢力と西の尾張の勢力に挟まれ、その時、その時の力関係で属する相手を変えねばならなかった。
 沓掛の近藤家も今は、西の三河を支配する今川義元を城に迎え入れているが、6年前までは尾張の織田家に属していた。信長の父織田信秀が三河の安祥城(安城市)を攻め落とすほどに勢力を伸ばしたときに織田に属したのだった。
 ところがその前は、今川の後ろ盾を受けていた三河の岡崎松平家に属していた。くるくると属する相手を変えることで生き延びてきた。
 刈谷の水野家もまったく沓掛の近藤家と同じように、三河から尾張そしてまた三河へと属する相手を変えてきた。
 刈谷が以前、三河に属していたとき、現在の城主水野信元の妹、於大方を岡崎の松平広忠の正室として出した。於大方と広忠の間に生まれたのが幼名竹千代、今の松平元康であった。
 ところが竹千代が生まれた次の年には、織田が勢力を伸ばし、刈谷は織田方に付かざるを得なくなった。松平広忠は於大方を離縁し、刈谷に返した。竹千代は物心つく前に母親と離されてしまった。
 しかも4歳の時に父広忠は今川への忠誠の証として、嫡男竹千代を人質として差し出した。ところが人質として駿府(静岡)へ船で送られる途中、織田方にさらわれてしまった。
 しばらく織田家にとらわれていたが、織田が攻め落とした安祥城が再び今川に攻め落とされ、城を守っていた信長の庶兄織田信広と人質交換が行われて、竹千代は駿府の今川義元のもとに送られた。
 そのすぐあと岡崎では、城主である竹千代の父の松平広忠が家来に殺されるという事件が起きた。城主が亡くなったのだから、跡継ぎの竹千代が岡崎に戻されそうなものなのだが、竹千代は今川義元のもとに留め置かれ、岡崎には今度の戦で鷲津砦を攻める朝比奈泰朝が城代として入った。
 竹千代は今川義元のもとで元服し、今川義元の一字をもらって松平元康と名乗った。さらに今川義元の娘をめとり、現在は今川方の武将となっていたが。未だに岡崎に帰ることはできなかった。
 さて、刈谷の水野信元も沓掛の近藤景春と同じく現在は、今川方についている。その水野信元がどうしたというのだろうか。
 そもそも沓掛の近藤景春が6年前から今川方についたのは、織田の家臣であった鳴海城の山口教継が信長を裏切り、今川方に付いたことから始まった。
 今川方となった山口教継は、鳴海城の2キロメートルほど南西にある織田の家臣が守っていた大高城をも攻め落とした。鳴海城は沓掛と清洲城の間にあり、鳴海が今川方につくことで沓掛の近藤景春は織田方との連絡を絶たれてしまった。
 すると、山口教継が沓掛にやってきて、
「刈谷の水野信元はすでに今川方についた。水野信元には甥に当たる松平元康が、今や今川義元様の婿になっているゆえ、すぐに話がついた。残るは近藤殿だけだ。今川方につけば本領を安堵するとのことだが、どうだ。」
 と迫った。
 鳴海、大高そして刈谷までもが今川方についたとなれば、沓掛は今川方の中に取り残されてしまう。今川方につく以外、選択の余地はなかった。
 刈谷の水野信元が今川方についたことも、当然なことだと近藤景春は思っていた。
 松平元康との叔父甥の関係を別にしても、鳴海、大高が今川方になったことによって、三河にある刈谷が沓掛以上に厳しい状況におかれることになったからである。
 なぜか、今川義元と松平元康の「おい、元康、刈谷の水野信元はどうなっているのだ。」「叔父のことは、わたしが・・・・」のやりとりが気になった。
 実は、近藤景春に今川方につくように迫った鳴海城の山口教継は、今川義元に謀反を疑われ、駿府で殺されていた。現在鳴海城に、今川の武将岡部元信が入っているのはそうしたわけである。近藤景春は山口教継が疑われて殺されたことを知って、今川義元の猜疑心の強さを感じた。もしかしたら刈谷の水野信元殿も今川義元に何か不審を抱かれたのだろうかと気になった。
 その時、近藤景春は鳴海城の重臣の一人が自分のそばで今川義元と松平元康の二人を見ているのに気がついたが、見送りをしなければとあわてて城門に向かった。明朝夜明け前に砦攻めをする者達が、城を出て行くのを見送った。
「ご苦労、明朝の大高城への案内を頼むぞ。」
 最後に、松平元康が近藤景春に声をかけて城を出て行った。

 近藤景春は、館に戻った時、先ほどの今川義元の「よき娘をもった」の意味を知った。杜若が今川義元の寝所に向かっていくのを見たのだった。
 今川義元が好色であることは知っていた。今川義元が沓掛にくると知らされたときから懸念していた。求められれば、断ることはできまいが、杜若の気性からすれば拒絶するに違いない。病で伏せているとでも言い訳するしかないかと思案してい た。それを自ら行ってくれたかと思うと、ほっとする反面、無力感と悔しさがこみ上げてきた。


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4 近藤景春の回想 
  「拳を突き上げる信長」
5 木下と梁田の回想
  「信長と杜若の再会」
6 大高城の松平元康
7 木下と梁田の回想(戦い後)
  「信長の戦略」
8 木下と梁田の回想(戦い後)  
  「杜若の策」
9 帰城した景春と杜若
10 信長勝利直後
11 一ヶ月後の岡崎城の元康
12 一年後の景春の隠居所

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