6 大高城の松平元康
木下藤吉郎と梁田政綱が信長勝利の報告を受けている頃、すでに松平元康は桶狭間から大高城に戻っていた。戻ると、すべての三河勢を城に入れ、門を閉じさせた。
桶狭間で今川義元に刈谷の水野信元との会見を願い出て、大高城に来ている水野信元を連れてくるまでの間、桶狭間で休憩していてくれるように頼み込んだ。だが、松平元康は水野信元を連れて行くことはなかった。水野信元はもともと大高城にはいない。大高城から南に10キロメートル北にある緒川城に待機させたままであった。
松平元康は目を閉じて知らせを待っていた。
「杜若め」
思わずつぶやいた。
初めて杜若に会ったのは、今から10年以上前、幼名竹千代であった頃だった。人質として今川に行くはずが、織田方に奪われ尾張に留め置かれていた。松平元康は、信長が何度も訪ねてきて、そのたびに自分を連れ出し、馬に乗せてあちこちに連れて行ってくれた時のことを思った。
ある時、信長が
「おまえと同じ年頃の姫に会わせてやる。わしの嫁になると言うておる。」
と言って、沓掛城へ自分を連れて行った。
信長来城を知っていたかのように、娘が飛び出してきた。自分より2、3つ上だろうと思われた。信長が「お前に会わせてやろう」と言っていた杜若姫に違いないと思った。
姫はすぐに自分に気がついた。というより、きっといつも自分が乗っている信長の前に誰かが乗っていることに気づいたのだと思った。馬上から、背中に信長を感じて見下ろすのは何か誇らしかった。
信長が何か言おうとしたその前に、杜若姫が
「そこにおいでのお方は岡崎の竹千代様ですね。沓掛の杜若と申します。」
と頭を下げ、挨拶した。
あのとき、自分は負けたくないと思った。馬から滑り降りると、
「殿ご寵愛の杜若姫にお会いできてうれしゅうございます。松平竹千代と申します。」
と大人びた物言いで挨拶した。挨拶した後、信長の前の席を取られそうな気がして、あわてて乗ろうとすると信長様が引っ張り上げてくれた。
姫は信長のお供として来ていた梁田政綱の馬に乗った。勝ったような気がして嬉しかった。
城主の近藤景春があたふたと現れ、挨拶を始めたが、信長がそれを遮って言った。
「今から、竹千代と姫にかきつばたを見せにいく。後ほど姫は帰す。」
「ではわたくしもお供を」
近藤景春が言うと、
「おぬしは付いてこずともよい、おっ、そこのさる、代わりにお前が付いてこい。」
近藤景春の後ろに控えている吉蔵に声をかけ、信長は馬を走らせた。
姫を乗せた梁田の馬が後に続いた。松平元康が後ろを見ると梁田の馬に乗った姫と目があった。思わず目をそらすと、梁田の馬の後ろから、馬に負けじと駆ける吉蔵が見えた。
かきつばたが群落をなして一面に咲いているのは、沓掛の城から東に2キロメートルほどのところにある沼であった。この沼と沓掛城の間に、杜若が信長に助けられた境川があった。この沼の東側は丘陵地になっていて丘陵地の山裾から泉が湧き出し、沼を作り出していた。沼の辺で馬を下りた。
「ここらあたりには、」
「よくまむしが出ますので」
「お気をつけください。」
「こうした穴などから出てきます。」
ようやく追いつき、顔を真っ赤にした吉蔵が息を切らしながら言った。
前を歩いていた竹千代が立ち止まって後ろの吉蔵を見た。そばの草むらにあいている穴を指さしている。その吉蔵の顔は赤く上気し、まるで猿そのものだと思った。
「いつ出てくるかとびくつくのはばかげたことだ。こちらの都合のよいときに出せばよいのだ。」
先を歩いていた信長が振り返って言った。
「出すと言っても」
竹千代の問いに
「おびき出す。」
信長はどうということはないというように言った。
「そうか、おびき出して、出てきたときに首を取ればいいんですね。」
出てきた首を取ってやると言わんばかりに、穴の前に立った。
「竹千代、それじゃあ、まむしも警戒して出てこないぞ、首も取れまい。」
「えっ、そうか分かった。穴の後ろにかくれていて、出てきたらその首を取るのだ。」
「あっはは。」
信長が満足そうに笑った。
竹千代は誇らしそうに信長を見上げた。
「でも、それはだめ。」
杜若が言った。
「どうしてですか。敵を討ち取ることがなぜだめなのですか。」
竹千代がせっかくほめてもらったのにけちをつけられたように感じて、不満気に言うと
「敵を討ち取ればいいというものではないわ。」
杜若が毅然と言った。
「でも、」
と竹千代が言い返そうとすると。
「もうよせ。見ろ、かきつばたが美しく咲いているぞ。」
信長が二人の言い合いを止めた。
「わしは、刈谷に竹千代を連れて行く。梁田、姫を沓掛にお送りしろ。」
信長はそう言うと騎乗し、竹千代を自分の前に引っ張り上げると駈けだした。
信長が刈谷に連れて行ってくれるのは、母に会わせてくれるために違いなかったが、竹千代はそのことよりも、信長に長い時間抱かれるように馬に乗っていられることの方がうれしかった。
刈谷城で母親に会ったが、女の人が泣きながら自分を抱きしめてきたことを覚えている、それだけだった。生まれてすぐに別れたせいか、何も感じなかった。
それより、忘れずに覚えていることがあった。刈谷からの帰り道、一度馬から下りて丘の上の見晴らしのよい所に信長と二人で立った。
信長が遠くの景色を見ながら言った。
「竹千代、おまえは駿河の今川のもとへ行くことになった。今から言うことをよく覚えておけ、おまえが元服した折には、わしと共に戦おうではないか。元服した後、岡崎に戻っておれば使者を遣わす。
だが岡崎に帰れず、駿府に留め置かれたならば、先ほど沓掛で会った猿そっくりな顔の男を覚えておろう、あの顔ならば忘れまい、やつをおまえとの繋ぎとして送る。
その時、まだわしと共に戦う気があれば、やつに『かきつばたは咲いたか。』と言え。そうでなければ知らぬふりをすればよい。よいか『かきつばたは咲いたか。』だぞ。」
言い終わるとまた竹千代を馬に乗せ、今までになく速く馬を走らせた。信長は片手で手綱をとり、もう片手で竹千代が落ちないように強く抱きしめた。
自分が生きてきた中で幸せを感じたのは、あのときの信長様の腕の中であったと松平元康は思った。
「今川義元様が織田信長に首を討ち取られてございます。」
斥候として残しておいた者からの知らせが入った。
城中の三河勢を集めると、松平元康は大声で言った。
「よく聞け、今川義元様が討ち取られたとの知らせが参った。」
どよめきが起きたが松平元康は手で制し、続けて言った。
「今川義元様が討ち取られては、もはや我々がここにいる意味がなくなった。」
一呼吸おいて
「岡崎に帰るぞ」
大声で宣言した。
「うおぉ」
という歓声が上がった。
三河勢は松平元康を先頭にして、念願の岡崎城を目指して進んだ。
その折、松平元康は緒川城にとどめておいた水野信元に伝令を走らせた。伝えた内容
は、「今川義元は織田信長に討ち取られた。わたし(松平元康)は岡崎城に向かう。叔父上(水野信元)はそのまま緒川城に留まるのがよかろう。決して動いてはなりませぬ。」というものであった。
さぞや叔父上(水野信元)は混乱するであろうと思った。
「杜若め」
とまた松平元康はつぶやき、自分に従う三河勢に
「急げー」
と叫んだ。
7 木下と梁田の回想(戦い後)「信長の戦略」
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「信長と杜若の再会」
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7 木下と梁田の回想(戦い後)
「信長の戦略」
8 木下と梁田の回想(戦い後)
「杜若の策」
9 帰城した景春と杜若
10 信長勝利直後
11 一ヶ月後の岡崎城の元康
12 一年後の景春の隠居所
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