11 信長勝利直後

 梁田政綱は沓掛の近藤一族を引き連れて城に戻すと、すぐに信長のもとに馬を走らせた。信長は今川義元を桶狭間で討ち取ったあと、逃げる今川勢を追撃せずに鳴海城を囲み、中島砦にて指揮を執っていた。
 梁田政綱は信長のもとに参上して、杜若が自刃したこと、近藤景春が隠居を申し出たことを伝え、遺書を渡した。
 信長は杜若からの遺書を梁田から受け取り、読み終わると一度天を仰いだ後言った。
「是非もなし。杜若はわしと共に天下を駆けてゆくと言っておる。杜若よ、さあ行こう。誰も見たことのない地平を駆けようぞ。」
 と言うと、謡曲「敦盛」を謡い舞い始めた。
「人生五十年、下天のうちに比ぶれば、夢幻のごとくなり、一度生をうけ滅せぬもののあるべきか」
 杜若への追悼の舞であった。舞い終わると
「さあ、こうしてはおれぬ。先に進まねばならぬ。さる。」
 と、部屋の片隅で先ほどから身を震わせ、嗚咽をこらえている者がいる。木下藤吉郎である。
「はっ」。
「杜若の魂はすでに美濃の空に飛んでいよう。そして我らがくるのを待っていようぞ。さる、すぐさま美濃に入れ、もたもたしているとまた杜若に一本とられるぞ。」
 信長の言葉を聞くと、木下藤吉郎は
「はっ」
 と答えると部屋を飛び出していった。
「すぐに美濃攻略の準備をする。清洲に戻るぞ。だれぞ鳴海城へ使者に立て、今川義元の首を返してやれ、その首を持って駿河へとっとと帰れと伝えよ。」
 信長の命令に家臣は怪訝な顔をした。鳴海城を囲み攻め落とすとばかり思っていたところ、清洲に戻るという。しかもせっかく取った敵将の首を返し、籠城している者達をそのまま解放するなど考えられないことであった。
「何をしておる、すぐに行け。岡部元信などに関わり合っている暇はない。鳴海城などもはや用済みじゃ。今川義元の首もわしには無用なもの、岡部元信に土産に渡してやれ。」
「おい梁田、沓掛城はそちに任せる。杜若もそれを望むであろう。お前はすぐに沓掛城に帰れ。沓掛の者達もそちであれば安堵しよう。それから近藤景春には望む所で隠居してよいと伝えよ。隠居所なども用意してやれ。」
 信長は矢継ぎ早に指示した。
 梁田政綱は早速、沓掛城に向かい。
 鳴海城にはすぐに使者が立てられた。
 使者は今川義元の首が入った箱を持参した。城主の岡部元信が出迎え、応対した。開城し、降伏するようにと伝えてきたに違いないと思ったが、応じるつもりはなかった。討ち死にを覚悟していた。
 鳴海城にいた岡部元信は、鳴海城の付城である丹下砦、善照寺砦、中島砦の攻撃が今川義元によって開始されるのを今か今かと待っていた。ところがその今川義元が討ち取られたという知らせが届いた。しかも大高城の松平元康は去り、鳴海城だけが取り残され包囲されてしまった。
 何がどうなったのか分からぬまま籠城するしかなかった。すでに尾張で雇った雑兵は城から逃げてしまっていた。残っているのは駿河からともに来た100足らずの兵力しかいなかった。だが大将を討ち取られ、おめおめ駿河には帰れない。一矢なりとも報わねばと覚悟していたのだ。
 ところがそこへ織田方の使者が今川義元の御首級を持ってきた。そして御首級とともに駿河に戻るように言ってきた。半信半疑で使者の伝言を受け取った。孤立し立て籠もっている自分たちを、駿河にそのまま返してくれるというのは信じがたいことであった。さらに討ち取った敵の首を渡すというのもあり得ないことであった。なんと返事したものかと思っているそのとき、見張りに立っていた家臣が飛び込んできて言った。
「織田方が城の囲みを解いて去っていきます。」
「な、何と」
 驚いて、使者の顔を見ると、使者は
「織田信長様はこの鳴海城を攻撃するおつもりはない。駿河に今川義元様の御首級をお連れするのがよかろうぞ。すでに信長様はこの城の囲みも解かれ、清洲に向かわれた。では拙者も失礼いたす。」
 と言うと、さっさっと帰って行った。
 あっけにとられたのは岡部元信をはじめ鳴海城に立て籠り、討ち死にさえ覚悟していた者たちだった。罠ではないかと外を伺うと確かに織田方は去っていた。
 岡部元信は全く理解ができなかった。織田信長が不気味であった。いったいどうやって今川義元様を討ち取ったというのだ。そして討ち取った首を返し、城に立て籠った相手を攻めることなく、そのまま帰れという。これはなんだ。
「殿、いかがなさいますか。」
 家臣がこれもまたどうしたものか尋ねたが、すでに討ち死を免れた安堵感が顔に表れていた。一度張った糸が切れてしまってはもはや戦うことはできまい、それに信長が意に介さない城に籠城したところで何の意味がある。義元様を駿河にお戻しすることがせめて自分にできることだと岡部元信は思うしかなかった。
「義元様を駿河にお戻しするぞ。」
 今川義元の首をもらい受けた岡部元信とその家臣達は鳴海城を出て、東の駿河に向かった。岡部元信は、悶々とした思いを抱えながら馬を進めていた。
 そもそも今回の尾張攻めは、自分が今川義元に後詰めを頼んだことから始まった。付け城を付けられ、織田方の攻勢が強められたからであった。その自分が何もしないでおめおめ退却する。武将としての矜持が自分を責めた。
 一度は立て籠り討ち死にを覚悟したのだが、信長はさっさと軍を引いてしまった。そればかりか討ち取った今川義元の御首級まで返した。全く肩すかしを食わされた感じである。持って行き場のない憤りさえ沸いてきていた。思わず
「なんたることだ。」
 と声に出していった。
 その言葉が聞こえたのか、岡部元信と並べて馬を進めていた重臣が言った。
「刈谷の水野信元が裏切ったに違いござらん。」
 それを聞きとがめて、岡部元信は尋ねた、
「刈谷の水野信元が裏切ったとはどういうことじゃ。」
「はい、わたくしが殿の名代として沓掛城の軍議に参加した折、水野信元はおりませんでした。おかしいなとは思ったのですが、義元様は何もおっしゃらないので承知なさっていることかと思っておりましたが、軍議の後で義元様が水野信元のことを松平元康殿にどうなっているのかと叱責されていました。
 何があったのかと不審に思ったのですが、こうなってみると水野信元が裏切ったのではないかと思うのです。そうでなければこのようなことになるはずがありません。」
 と重臣は言い切った。
 今、岡部元信の持って行き場のない憤りが行き場を見つけた。
「今から、刈谷城を攻撃する。このままでは駿河には帰れない。裏切り者に一泡食わせてやろう。」
 と叫んだ。
 岡部元信の軍勢が刈谷城に着いたとき、水野信元は緒川城にいて、刈谷城は空であった。空の城に火を掛けて岡部元信は今川義元の首と共に岡崎を避け駿河に帰った。

 一方火を掛けられることになった刈谷城主の水野信元は、甥の松平元康からの知らせを受け、驚愕した。
 松平元康に言われたように刈谷城の対岸の緒川城に兵とともに移り、今川義元からの指示を今か今かと待っていた。沓掛城で行われたであろう軍議にも呼ばれず、緒川城を指示のあるまで動くなと言われている以上待つしかなかった。
 いらいらして待っていたところ、やっときた知らせは「今川義元は織田信長に討ち取られた。わたし(松平元康)は岡崎城に向かう。叔父上(水野信元)はそのまま緒川城に留まるのがよかろう。決して動いてはなりませぬ。」というものであった。
 なにがどうなったのか全く分からず混乱した。自分がここでじっとしているうちに、とんでもないことが起きたようだ。すぐにことが事実かどうか、あちこちに探索に行かせた。自分だけが取り残された不安で一杯になった。水野信元は落ち着きなく部屋をうろうろしながら探索の報告を待った。
 今川義元が織田信長に討ち取られたことは事実であること、次に松平元康はすでに大高城を引き払っていることが報告された。甥の松平元康からの知らせは事実であった。松平元康はこのまま緒川城に留まるように、決して動くなと言うがどうしたものか、織田勢が今にも攻めてくるように思えた。緒川城は城と言うより館程度であり、攻められたらひとたまりもない。刈谷城に戻った方がよいのではないかと、不安に駆られるが決断できないままで時間だけが過ぎていく。
 ようやく鳴海に偵察に行っていた者が報告に来た。鳴海城は包囲されたものの、すぐに包囲は解かれ織田勢は鳴海を去り、鳴海城に立て籠っていた岡部元信も城を出て、駿河に帰っていったらしい。というものであった。
 今川義元が討ち取られ、松平元康、岡部元信など今川勢は皆引き上げてしまった。自分だけが取り残されたことになる。水野信元はあわてた、とにかく刈谷城に戻らねばならない。
「刈谷城に戻る。すぐ船の用意をせよ。」
 と大声で怒鳴ったとき
「織田の・・」
 という家来の叫び声が聞こえた。
 水野信元は織田勢が攻め寄せてきたと思って青くなった。呆然としている水野信元に
「織田の御使者がみえられました。」
 と走り込んできた者が告げた。
「こ、こちらにお通しせよ。」
 信元はうわずった声で言った。もうとにかく降伏するしかない。平伏して織田の使者を迎えた。
「今川義元は織田信長が討ち取った。水野信元は殊勝にも今川方と行動をともにしなかった。よって、織田信長に忠誠を誓えば本領を安堵する。」
 と言うのが使者の口上であった。
 水野信元は狐につままれたような気がした。とにかく畏まって受け入れた。使者を送り出した後、思わず顔がにやけた。そうだ、確かにそうだ、自分は軍議にも加わっていない。ただ緒川城にいただけだ。これはついているぞ。つい先ほどまでの焦燥感が嘘のように晴れ、小躍りしたい気分である。
 そのとき
「殿、大変です。刈谷城が燃えています。」
 という知らせが来た。
 あわてて対岸の刈谷城を見ると城が燃えていた。
「何故、どうして、何が、何だか・・」
 そうつぶやきながら水野信元は床にへたり込んだ。

 歴史的な桶狭間の戦いの一日は、終わった。


 近藤景春と女房は娘の杜若の亡骸と一晩過ごした。
 夜が明けると、近藤景春は火葬の準備をした。遺書の中で、自分は土の中ではなく、煙となって信長様と一緒に駆けていきたいと言っている。薪に火がつけられ、煙と炎が天に昇り、西方に流れていく。
 近藤景春と女房は手を合わせて念仏を唱えた。すると、沼の対岸から大勢の人たちが唱える念仏が聞こえてきた。見ると、対岸は人で埋め尽くされていた。二人だけで野辺送りをしたいと言ってあったので、誰もこちらには来ないが、皆、杜若のために念仏を唱えていた。

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1 桶狭間の戦いの謎
2 戦い前日
3 戦い当日
4 近藤景春の回想 
  「拳を突き上げる信長」
5 木下と梁田の回想
  「信長と杜若の再会」
6 大高城の松平元康
7 木下と梁田の回想(戦い後)
  「信長の戦略」
8 木下と梁田の回想(戦い後) 
  「杜若の策」
9 帰城した景春と杜若
10 信長勝利直後
11 一ヶ月後の岡崎城の元康
12 一年後の景春の隠居所


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