1 桶狭間の戦いの謎

 
桶狭間の戦いは戦国時代の戦いの中でも、よく知られた戦いである。織田信長が桶狭間で休憩していた今川義元の3万もの軍勢を、2千ほどの寡兵で打ち破り、義元の首までも討ち取ったとされている。この信長の奇跡的ともいえる勝利となった戦いには、疑問や謎がある。

 まず第一に、2千ほどの軍勢で、10倍以上の3万もの軍勢を打ち破り、さらに敵の大将の首まで討ち取るなどということが実際に可能だろうか。
 兵力の劣る側が奇襲等で相手を追い払うことはあるだろうが、相手の大将をまでも討ち取るということは非常に難しい、ましてや10分の1以下の兵力で成し遂げるなどとは、やはり不可能ではないだろうか。
 信長はこのような無謀ともいえる戦いにどんな勝算があったのだろうか。一か八かの賭に出たというのだろうか。
 こう考えたとき、そもそも桶狭間の戦いの3万対2千の戦いという設定自体が本当だろうかという疑問が生じる。


 第二に、今川義元が桶狭間で休憩したことが謎である。
 前夜の宿泊地である沓掛城を出発し、桶狭間までは西に4キロメートルほどである。出発して1時間程度の行軍で、何故休憩などしたのか、大いに謎である。

 もし今川義元が桶狭間で休憩しなかったら、信長は桶狭間を通過する隊列の義元をピンポイントに、ジャストタイムで急襲しなければならない、桶狭間からさらに西4キロメートルのところに今川方の大高城があり、東4キロメートルのところには出発した沓掛城がある。隊列の前だったり、後ろだったりすれば、どちらかの城に逃げ込まれてしまうだろう。

 第三に、大高城にいたと思われる松平元康(後の徳川家康)の行動が不可解である。
 松平元康は桶狭間からたった4キロメートルのところにいた。見張りを出していなかったのか、桶狭間での戦いに気づかなかったようで援軍に行かなかった。
 ところが、戦いの後、大高城を出て、さっさと岡崎城(桶狭間の戦いの前までは朝比奈泰朝が城代で、元康は駿河の義元の下に留め置かれていた)に入っている。これはどういうことか。

 第四に、桶狭間の戦いの後、取り残され、織田方に包囲された鳴海城の岡部元信は、開城して、信長から返された今川義元の首を持って駿河に帰るが、その途中で刈谷城(水野信元)を攻めている。これも謎である。
 今川方の岡部元信が攻めたと言うことは、刈谷城(水野信元)は織田方だったということなのか。
 尾張東部の沓掛城、鳴海城、大高城、が皆今川方になった中で、三河に取り残された刈谷城(水野信元)が織田方のままだったとはとても思えない。もしも織田方だったなら、今川義元は刈谷城を第一に攻撃するはずではないのか。水野信元は今川方だったのか、それとも織田方だったのか。

  第五に、桶狭間の戦いで最も手柄を立てたとされたのは、一番槍の服部一忠でも、義元の首を取った毛利良勝でもなく、情報活動で功をあげた梁田政綱とされている。確かに戦後に沓掛城を褒美として拝領している。だが、梁田政綱の出身地は尾張北部(北名古屋市)で尾張東部に情報活動の基盤を持っていたとは思えない。
 なぜ梁田政綱は沓掛城を拝領できたのか、謎である。

 以上の疑問や謎を、一人の女性を登場させることで解き明かしていく。この女性は架空の女性で、物語はフィクションではあるが、史実は踏まえたものになっている。

 なお、登場人物の回想を綴ったかたちで物語は語られているので、時系列や時制に留意していただきたい。

 
            2 戦い前日へ

                        トップページへ

1 桶狭間の戦いの謎
2 戦い前日
3 戦い当日
4 近藤景春の回想 
  「拳を突き上げる信長」
5 木下と梁田の回想
  「信長と杜若の再会」
6 大高城の松平元康
7 木下と梁田の回想(戦い後)
  「信長の戦略」
8 木下と梁田の回想(戦い後) 
  「杜若の策」
9 帰城した景春と杜若
10 信長勝利直後
11 一ヶ月後の岡崎城の元康
12 一年後の景春の隠居所

トップページへ