桶狭間の戦い当日

 鷲津、丸根の両砦を落としたとの知らせが、夜が明けるとすぐにあった。また、織田勢は鳴海城の付け城である中島砦に集結していることも報告された。
しかし今川義元がなかなか起きてこなかった。朝早く出発するはずが、すでに日は高くなっていた。
 やきもきして待っていた家来どもの前に現れた今川義元は、近藤景春を見つ
け、手招きした。近藤景春はおそるおそるそばに寄った。

「おい、寝過ごしてしまったぞ。姫が寝かせてくれなんだ。夜もまさに鬼姫で
あったわい。帰りにはまた寄る故、楽しみに待つよう言っておけ。」

 耳そばで大きな声で言うと大笑いしながら支度にかかった。
 近藤景春は後ずさりしながら、自分の娘の杜若とは違う誰か別の者のことを聞いているように思えた。
 今川義元の軍勢が出発したのは、午前10時をとうに過ぎていた。
 道案内として先頭に沓掛衆が近藤景春を含めて5騎、今川の軍勢は騎馬と徒を含めて500足らずであった。今回の織田との戦いのねらいは沓掛城での軍議にあったように、尾張東部から織田を排除することであった。
 そしてその今川方の兵力のほとんどは三河勢で、今川義元が駿府から連れてきたのは本陣のみであった。先に織田方の砦を攻撃していた朝比奈泰朝にしても自分の家来ではなく、岡崎の三河勢を指揮していたに過ぎない。その朝比奈泰朝は鷲津、丸根の両砦を落としたことを知らせに来て、そのまま輿に乗った今川義元に随行していた。
 沓掛城から大高城までは8キロメートル余り、ほぼ2時間程度の行程である。2キロメートルほど行ったところからは丘陵地となっていた。まだ朝のうちならば涼しかったであろうが、出発が遅れ、丘陵地を登り出す頃には暑さが増してきた。
 さらに丘陵地は日陰にもならない背の低い雑木や赤い裸地ばかりで、高くなった日差しが容赦なく降り注いでくる。また幾筋かの谷が走っていて、上ったり
下ったりしなければならなかった。隊列の進みは鈍かった。

 先頭をゆく近藤景春はたびたび振り返っては、遅れがちな隊列に合わせた。
 ようやく行程のちょうど半分の地点となる桶狭間に隊列がさしかかったとき、前方に3騎の騎馬が待ちかまえているのが見えた。
近藤景春らが緊張して構えると、
「松平元康である。殿にお取り次ぎ願いたくお待ちしておりました。」
 と叫びながら近づいてきた。
 確かに騎馬は松平元康であった。近藤景春は隊列を止め、松平元康とともに今川義元の輿に近づくと、下馬して
「松平元康様がお見えです。」
 と今川義元に伝えた。
 今川義元が輿から降りた。
「暑い、まったく、もそっとゆっくりゆけ。輿が揺れて落ちそうになったぞ。」
床几にどたっと腰を下ろし、不機嫌そうに今川義元が怒鳴った。
「誠に申し訳ございません。」
 先導を務める近藤景春は手を着いてわびを言った。
 こうした丘陵地を行く場合は馬に乗っていく方が楽で速い。輿で谷筋を上ったり下ったりすれば、当然輿を水平に保つのは困難なことだ。乗っている者も大変である。しかし、今川義元は太っていておまけに足が短く、上手く馬に乗れなかった。それで移動はいつも輿を使った。
 沓掛城から大高城までは8キロメートル余り、ここ桶狭間はその中程、まだ半分しか来ていない、昼前には到着する予定であったが、もう昼になろうとしていた。進み具合も遅いが、何より出立が大幅に遅れたためであった。
「で、松平元康が何用じゃ。」
 不機嫌なまま、今川義元が言った。
「願いの議があり、まかり来しました。」
 松平元康が今川義元の前に進み出て言った。
「なんじゃ。」
「叔父、水野信元のことでござりまする。」
「刈谷がなんだというのじゃ」
「ぜひとも、殿にお詫びしたいと、大高城に来ておりまする。」
「なんじゃと、今になって詫びがしたいとな。」
 今川義元が吐き捨てるように言った。

 
ああ、昨夜の今川義元と松平元康との会話の意味は、このことだったのかと近藤景春は思った。
「いや、叔父が緒川城に移ったのは、ただ、すぐに甥である私の加勢ができるようにと考えてのことではありますが、義元様の指示を待たずに動いたことを誠に申し訳なかったと申しております。」
 水野家の居城は、境川河口の東岸(三河)にある刈谷城であったが、川の対岸(尾張)にも規模は小さいが城を持っていた。それが緒川城(知多郡東浦町)である。
「ふん、まことか、まあよい、では大高城で会ってやろう。」
 面倒くさそうに言って立ち上がろうとした今川義元の前に松平元康が両手をつき、
「いや、大高の城に到着される前に、是非ともお言葉を。」
 とさらに願った。
 今川義元は上げかけた腰をまた床几に下ろして、
「なぜじゃ、もうすぐに大高城に着くではないか。」
 と不審げに言った。
「いや、すぐに連れて参りますゆえ、大高城内ではなく何とぞこの場にて、この場にてお願いいたします。」
 松平元康は懇願した。
 今川義元はしばらく訝しそうに思案していたが、何かに気づいたのか、太ったあごを突き出すようにして言った。
「ほう、大高城では都合が悪いというのじゃな。」
「伏して、伏してお願いいたします。」
 松平元康はなおも頭を低くした。
 しばらく妙な時間が流れた。
 近藤景春はなんとか口添えしたいと思ったが、自分が口を挟めることではなかった。
 そのとき後ろから小声で
「殿、吉蔵が参っております。」
 家来から声をかけられた。
 近藤景春が振り返ると木立の向こうに、控えている一人の百姓が見えた。確かに吉蔵であった。吉蔵は沓掛城の台所方として十年来仕えている。
 地に額をこすりつけて願う松平元康の姿と、あごをなでながら意地悪く見下げる今川義元を見るのにつらくなった近藤景春は、そっとその場を離れ吉蔵の所に行った。
「何用じゃ。」
 近藤景春は吉蔵に声をかけた。、
「お恐れながら、今川様に戦勝のお祝いを土地の者と持ちしました。お取り付ぎいただけないでしょうか。」
 吉蔵が答えた。
「おお先勝祝いとな。」
「酒、肴にございます。」
「それは気の利くことじゃ。あい分かった、控えておれ。」
 近藤景春は今川義元の近習にこの旨を伝えた。
 近習が今川義元の耳元でそっと伝えると
「何、余に土地の百姓どもが戦勝祝いに酒、肴を貢いできたとな。気の早いやつらめ、抜かりがないのう。なあ元康。」
 と言う今川義元に、
「恐れ入ってございます。なにとぞ上様におかれましては、ここにおいてしばしお休みいただきたくお願い申し上げます。さすれば、すぐに叔父を連れて参ります。重ねてお願い申し上げます。」
 相変わらず土下座したまま、松平元康が答えた。
 すこし間を開け、にやりとした今川義元がゆっくりした口調で、
「そちは我が婿であったなあ。婿の頼みとあらば、きかぬわけにはいかんのう。」
 と恩着せがましくし言うと、続いて
「皆の者も前祝いとせい。」
 と大声で命じた。
 今川義元の機嫌が直ったのを感じて、家来どもは喜色の体で休憩の準備をはじめた。だらだらとした行軍は返って疲れる。おまけにもう昼になっていてお腹もすいてきた。絶好のタイミングでの休憩となった。
 近藤景春は吉蔵の下に駆け寄り品物を届けるよう指図した。
「近藤殿、お主のおかげで助かったわ。」

 松平元康が後ろから声をかけてきた。
 近藤景春が頭を下げると
「休憩の間の見張りも、よろしくな。おお百姓どもが戻ってきた。やつらを送りながら配置につくがよいぞ。」
 言い終わるや松平元康は急ぎ去っていった。水野信元を今川義元に引き合わせるため、大高城に連れに行ったのであろうと、近藤景春は思った。
 祝いの品を積んできた数台の荷車のそばに吉蔵と百姓たちが控えている。
 近藤景春が
「吉蔵ご苦労であったな。」
 と声をかけると、
「殿様、少しお話がございますれば。」
 吉蔵が小声で言う。
 彼のおかげで面目を施したこともあり、
「よかろう、送りながら話を聞こう。」
 と返事をすると、吉蔵が
「みなさまもご一緒にお願いします。馬はそちらに繋いでおいてくださいませ。」
 近藤景春の後ろに控えていた4人の家臣に向かって言った。
 言われるままに、馬を繋ぎ、近藤景春を含め5人は、吉蔵の後に続いた。
 本陣から離れ、もう今川勢の声も遠くなった。だが吉蔵は歩みを止めない。
「おいおい、どこまで行くのじゃ。」
 近藤景春が声をかけると

「お会いさせたい方が待っておられます。もうすぐでございます。」
 吉蔵は振り向いて答え、頭を下げるとまた歩き出した。
「話があるのではなかったのか、会わせたい者とは誰じゃ。」
 近藤景春は、さらに早足で先をゆく吉蔵を追いかけながら聞いた。
 聞こえなかったのか吉蔵は答えずに谷を降りていった。5人も仕方なく谷を降りていった。
 すると雑木林の向こうに、薪の積んである小屋があった。
「お入りください。」
 吉蔵に言われて怪訝には思ったが、言われるままに小屋に入った。

 すると戸がすぐに閉められた。明るいところから急に暗いところに入ったので目が慣れない。目が慣れたとき自分たち5人が幾本もの槍に囲まれているのに驚いた。
「声を出したら刺しまするぞ。」
 と言って奥から現れたのは、何と梁田政綱であった。
「あっ、梁田殿。」
 近藤景春が思わず声に出すと
「近藤景春様、お久しぶりです。確かに織田家臣梁田政綱でございます。お静かに願います。」
 梁田政綱は沓掛城の近藤景春が6年前まで織田方に属していた頃、織田信長に随行して、何度も沓掛城へ来ていた。また織田信長の用を言いつかって一人で来ることもあった。なぜか近藤景春とは気があって、よく酒を酌み交わした。
「こ、これは何としたことか。」
 驚く近藤景春に
「こちらをご覧ください。」
 梁田政綱が小屋の奥の暗がりを手で示した。そこには数名の者が縛られ、猿ぐつわをされていた。
「見張りについていた沓掛御家中の方です。皆様も申し訳ありませんがしばらくの間、大人しくしていていただきます。」
 近藤景春以外の4名の家臣は縛られ猿ぐつわをされた。
「近藤様はこちらへ。」
 梁田は近藤景春を小屋の外に連れ出した。丘の上に吉蔵が立っている。
 梁田政綱が、
「さあ、近藤様も丘の上の藤吉郎殿の所へ」
 近藤景春に丘を登るよう促した。
「藤吉郎とは、」

 先に丘を登り始めた近藤景春が後ろを振り返って、怪訝そうに聞いた。
「歩きながらお話ししますので、さあ上ってくだされ。」
 もう一度上るように促しながら、
「実は、吉蔵は織田信長様の家来で、本当の名を木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)といいます。」
「えっ」
 と言って、坂を滑りそうになった近藤景春を支えながら梁田政綱は続けて言った。
「信長様の命により沓掛城に入っていたのです。」
「な、なんと」
 近藤景春は一瞬ぽかんとして、それから丘の上の吉蔵を見た。
 その吉蔵が丘の向こうに向かって大きく手を振り始めた。そしてこちらに向かって、
「早く、早く来なされ。」
 と言った。
「おう、」
 梁田政綱が答え、近藤景春をせかせた。
 丘に登ると、吉蔵が
「ご覧くださいませ。」

 いつもと変わらぬ口調で言うと指さした。その指の差すところは丘と丘に挟まれた谷筋であった。
 その谷筋を何かがどんどん近づいてくる。なんとそれは旗こそ立ててないが、軍勢である。さらに近づいてくると先頭の騎馬が信長であることが分かった。
信長は鎧こそ着けていたが兜はかぶっていなかった。
 もう自分の立っている丘のすぐ下までやってきた。信長は近藤景春を見てほほえんだ、確かにほほえんだように近藤景春には見えた。近藤景春たちのいる丘の下を軍勢が進んでいく、先頭の信長が拳を高くかざした。その先を進めば今川義元の本陣がある。
 信長が拳を高くかざした後ろ姿は、近藤景春にとって何度か見覚えがあった。


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1 桶狭間の戦いの謎
2 戦い前日
3 戦い当日
4 近藤景春の回想 
  「拳を突き上げる信長」
5 木下と梁田の回想
  「信長と杜若の再会」
6 大高城の松平元康
7 木下と梁田の回想(戦い後)
  「信長の戦略」
8 木下と梁田の回想(戦い後) 
  「杜若の策」
9 帰城した景春と杜若
10 信長勝利直後
11 一ヶ月後の岡崎城の元康
12 一年後の景春の隠居所

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