4 近藤景春の回想 「拳を突き上げる信長」
もう10年以上前のこと、沓掛城の近藤家が織田方に属していた頃のことだった。近藤景春の脳裏に自分が今までに見た信長の後ろ姿が一瞬のうちに浮かんだ。
「殿、姫様が怪しげな者とともに。」
「何事じゃ、五月がどうしたと言うのじゃ。」
「それが、姫様を抱いて怪しげな者が、大声で殿の名を呼んでおりまして、そのう、なにぶんやつは強うございまして、門番など皆打ち据えられてございます。」
「なんたることだ。」
近藤景春は太刀を携えると城門へ向かった。
城門を開けさせると、裸で腰帯一つの若者が近藤景春の七歳になる娘の五月を片手に抱き、もう一方の手には竹の棒を持って立っていた。後ろにその者の家来とおぼしき者が2頭の馬の手綱を持って立っている。
姫を抱いた若者の周りには、5、6人の門番や警護の者が転がり、頭を押さえたり、腹を抱えたりしながらうめいている。
「あっ、とと様。」
五月が声を出すと、若者は五月を降ろした。
五月は若者が着ていたのではと思われる、派手な模様の着物を引きずりながら、近藤景春の方へ駆けだしてきた。駆けだしてきた五月を受け止めると
「何者じゃ。」
と、近藤景春は問うた。
門番や警護の者をこのように打ち据えるとは、ただごとではない。しかし、五月をすぐに解放するとはどういうことか。
すると、父の顔を見上げながら五月が言った。
「私、川に落ちたの、信長様が助けてくださったの。」
「のぶなが」近藤景春は口の中で言ってみてはたと気がついた。
「織田の信長様」
言いながらあわてて腰を下ろし、自分に従ってきて、すでに若者を囲んでいた家来に怒鳴った。
「こちらは清洲の織田信長様でいらっしゃる。控えろ。」
主人の様子に、訳のわからないまま家来はその場に土下座した。
その時、その場に2人の下女が息を切らせながら走り込んできた。近藤景春とともにいる五月を見つけると
「姫様。」
と叫びながら走り寄った。
「どうしたというのだ。」
近藤景春の問いに
「申し訳ありません。境川で花を摘んでいまして、そのう、姫様が足を滑らせまして川に・・・その時あの方が、裸になって川に飛び込んで助けてくださいました。沓掛城の姫様だと申しますと。姫様を抱えて馬で駆け出されましたので、もうあわてて追いかけて参りました。」
そう答えた下女の手には濡れた五月の着物があった。
そのやりとりを見ていた信長は、後ろを向くと馬を引き寄せ、
「姫、また遊びに来るぞ。」
と言うなり、馬に飛び乗った。
近藤景春はそれを見てあわてて立ち上がり、
「信長様、娘のこと誠にありがとうございました。御礼を」
と言いかけたが、すでに信長は城門に背を向け、右手の拳を高く突き上げると駆けだしていった。
残っていた信長の家来が
「近藤様、申し訳ござらん。信長様はいつもこのようでして。わたしは織田の家臣で梁田政綱と申します。では」
と言って、信長の後を追っていった。
唖然として見送る近藤景春に
「とと様、見て、このかきつばたきれいでしょう。信長様が採ってくださったの。」
「わたしをお嫁様にしてくださるの。お約束したのよ。それでこのかきつばたをくださったの。」
娘の五月が話しかけた。
「何をばかげたことを」
近藤景春が言い放つと
「本当よ。」
と五月は言い張る。
そこに母親のなつが来て
「川に落ちたそうではないか、大事なかったか。」
と言いながら我が娘が派手で大きな着物を引きずって着ているのを見て、
「まあ、五月は何という格好をしていることか。」
あきれて、笑い出した。
「これは、信長様がご自分の着ていらっしゃったお着物を、わたしに着せてくださったの。」
五月は自慢そうに言った。
「それでね、今とと様にお話ししたところなの。わたし信長様のお嫁様になるの。」
父親に言ったことを母親にも五月はうれしそうに言い、さらに話し始めた。
「わたし、かきつばたを採ろうとして川に落ちたの、流されていくところを信長様が助けてくださったの。」
母親はそれを確かめるように近くにいた下女を見た。その中の一人が申し訳なさそうに
「まことでございます。川には近寄らないようにとお願いしていたのですが、誠に申し訳ございません。」
と言うのを
「それで」
母親は話の先を求めた。
「はい、それで姫様が川に落ちて流されてしまったのです。もう私どもはあわててしまって、大声で姫様をお呼びしていますと、馬に乗ったあのお方がみえて、馬から飛び降りるとお着物を脱ぐなり、川に飛び込んで姫様を助けてくださったのです。」
「まあ、その泳ぎっぷりのすばらしいことといったら、ねえ、」
朋輩を振り返って言うと
「本当に、泳ぎっぷりもすてきでしたが、姫様を抱えて川からあがってきたお姿も、まあ」
と言うなり赤くなった顔を手で覆った。
「何を言っているのですか、それから」
母親はあきれながら話の先を急がせた。
「はいあのお方は、濡れて寒そうな姫様のお着物を脱がそうとなされたのですが・・」
下女が言いよどむと
五月が言い放った。
「わたしがいけませんと言ったのです。」
「だってそうでしょう。わたしの肌を見ていいのは、わたしをお嫁さんにしてくださる方だけですもの。」
「そうでしょう。かか様。」
五月は母親を見ていった。
「それは、だけどおまえ。」
母親はびっくりしたように言って下女を見ると、下女たちは下を向いて笑いをこらえていた。
「でも、とても寒くて、わたしを助けてくださった方なので、善い人だと思ったの。それで、わたしをお嫁様にしてくれるならいいと言ったの。」
「そしたら、『わしは信長じゃ、そちの名は何という』とお聞きになったので、五月だと言ったの、そしたら、このかきつばたを採ってきてくれて『五月を信長の嫁にする。その印がこの花じゃ。この花のようなおなごになれ。』とおっしゃってくださったの。だから、着替えさせたの。それからね、とと様もかか様も、皆もよく聞いて、これからわたしの名前は五月じゃなくて杜若(かきつばた)にするわ。」
五月は手に持ったかきつばたを大切そうにして言った。
母親はあきれ顔で
「この着物は信長様のお着物なのか」
と下女に聞いた。
「はい、あのお方はご自分の着物を姫様にお着せになると、沓掛の姫様かとお確かめになって、裸のまま姫様を抱きかかえて馬に乗って走り出されまして、もうわたしたちはあわてて追いかけて参りました。申し訳ございません。」
下女は下を向いて答えた。
「おまえ様」
母親は近藤景春に問いかけた。
「信長様は何を着てお帰りになられたのじゃ。」
「何も着ておられなかった。」
と答えながら、なぜか信長の拳を高々と上げた裸の後ろ姿が気にかかって仕方がなかった。
「まあおまえ様は気の利かない・・・」
という言葉は耳に届いていなかった。
このときが、信長様に初めてお会いしたときだった。そして信長の拳を高く上げた後ろ姿を初めて見たのもこのときだった。
それからしばらくたったある日の夕刻、信長様が突然かぶいた姿で単身、沓掛城にみえられた。
姫を曹源寺でおこなわれる盆踊りに連れていくが、近藤景春にも一緒に来いと言い出した。曹源寺は沓掛城から南西に3キロメートルのところにある曹洞宗の寺である。後の合戦の地となる桶狭間はその曹源寺から2キロメートル北西にあたる。
曹源寺は北に鳴海城、西に大高城、それに東には沓掛城、そして南は刈谷城に挟まれ、そのどこにも属さない寺内領となっていた。
信長は、近藤景春の返事も待たず、姫を馬に乗せると、暮れかかった空のもとに駆け出していった。
あわてて馬を引き出させると近藤景春も信長を追いかけた。信長の馬は早い、門を出たときには見えていたが、もう見えない。だが行き先はわかっているので、あわてることなく近藤景春は後を追った。
ほどなく曹源寺に着いた近藤景春は、寺の山門前に馬を止めると境内に入っていった。境内にはあちこちにかがり火がたかれ、かがり火の中で大勢の人々が輪をつくり踊っている。輪の中心には櫓が組まれ、太鼓が景気よく鳴り響いていた。
踊りの輪を見るとかぶいた格好で踊る信長がすぐに見つかった。信長の前には姫が楽しそうに踊っている。
「これは、これは、近藤景春様。よくおいでいただきました。」
と声をかけられた。振り向くと寺の和尚がにこにこ笑いながら礼をした。
突然声をかけられ、「やあ。」と答えて、
「ところで、和尚、あそこであのようにかぶいた格好で踊っている若者がどなたかご存知か。」
と問うた。
すると和尚は相変わらずにこにこしながら答えた。
「もちろんでございます。吉法師さま、いや元服されたので信長様でしたな。」
さらに続けて、
「拙僧だけでなく、ここに居ります皆の衆も知っておりますぞ。」
と言った。
「なんと。」
驚く近藤景春に、
「まあこちらへどうぞ。」
本堂の縁側に座を勧め、
「失礼いたします。」
自分も座し、和尚が話し始めた。
「信長様は吉法師様であった頃からこのように皆の衆と一緒に踊られていました。みなの衆も喜んでお迎えしました。
と申しますのは、近藤様もご存知のようにこの辺りは東海道が通り、熱田の港も近く、人や物の往来が多うございます。そのため、見知らぬ者の出入りも多く、また馬子や船頭などの中には徒党を組んで悪さする者もあり、まことに物騒でありました。それで夕刻になりますと家々では戸締りをして、じっと閉じこもっているような有様でした。
ところが吉法師様がこちらにみえられ、次々に悪さをする者どもを退治されたのです。」
「なんと、軍勢を率いてこられたと申すのか。」
近藤景春が聞くと、
「いえいえそうではありません。」
手を振りながら和尚は言い、さらに話を続けた。
「まず、この辺りの悪がきどもを、打ち負かせ、手下としたのです。吉法師様は土地、土地の悪がきを見つけると、次々に打ち負かしてしまわれたのです。吉法師様はそれはそれはお強い。
無論悪がきたちは、吉法師様が尾張の若様であることなど知りません。信長様となられてからでさえ、あのようでいらっしゃいますから、無論吉法師様を見てもよそから来た自分たちと同じ悪がきに見えたでしょう。
打ち負かされた悪がきは次々に吉法師様の子分になり、吉法師様は鳴海、大高それに近藤様の沓掛とここら近在の悪がきどもの総大将になってしまわれた。
すると、今度はこの悪がきどもを使って、悪さをする者たちを退治されたのです。悪がきといっても大人顔負けの腕力の者ばかりが、百人近くも吉法師様のご命令で動くのですから、それはすばらしい働きをします。そのうち吉法師様が若様であることも、皆の知るところとなり。ますます勢いが付きました。
また、大人たちも子供たちだけに任せておけぬと立ち上がりました。おかげで、今ではどの家でも戸締りもせずに、暑いこの夏など戸を開けたまま寝ることができます。
信長様とこうして踊っている皆の衆との交わりはそれ以来です。ご覧ください。どの者も信長様と本当に楽しそうに踊っておりますでしょうが。」
和尚は自分も楽しげに踊りの輪を見て言った。
和尚の話を聞いた近藤景春は信じがたいという顔をして言った。
「しかし、吉法師様が領地を遊びまわり、領民を困らせたと伝え聞いているが、」
「それは尾張のお城の方々がおっしゃっていることではありませんか。そうそう吉法師様が畑のものや店先の物を勝手に取って食べるといったたぐいの話ではありませぬか。そんなことは一度もありません、たとえ庭先の柿を所望されたときでも必ず御代を払われます。
それだけではなく、この柿はうまいから街道で売った方がいいとか、よそではこんなものを作っているが、このあたりで作ってみたらどうかなど、よいお知恵を授けてくださいます。
今までは座によって産物の製造や販売が支配されていましたし、勝手に市で物を売ることもできませんでした。ところが信長様が楽市楽座を行ってくださったことで、誰もが物を作り、売ることができるようになりました。おかげで皆が競って工夫し、よい作物や産物を作り、売り買いするようになりました。
こうした物産は街道を使って三河へ、尾張へ、知多へと送られます。物の行き来が多くなり仕事が増えたので、馬子も船頭も悪さする暇がないほどです。
皆の暮らしも楽になり、生き生きと生活しています。ご覧ください、皆が楽しげに盆踊りに興ずる様子を。
そうそうほら櫓で太鼓をたたいている男が、その時の信長様の手下の一人です。今は家業を継ぎ、名も改めました。近藤様も名だけはご存じかと思いますが、尾張一の問屋(馬子や船頭達をまとめ物資の流れを司っている)尾張屋宗右衛門さんです。」
和尚に言われ櫓を見ると太鼓をたたいている男がいた。ところがその男、片腕がない。片手だけで太鼓を打っている。
「おい、あの男は片腕がないぞ。」
近藤景春が和尚に言うと
「はい、信長様に切り落とされました。」
と苦もなく答えて、びっくりしている近藤景春に話を続けた。
「信長様は悪者に対してだけ厳しいお方ではございません。例えお身内であっても守るべきことを守らなければ躊躇なく成敗なさいます。
尾張屋宗右衛門さん、その当時は宗太と申しました。宗太は信長様の右腕となって悪者退治に活躍し、信長様も信頼しておられました。
ある時、茶屋で信長様と、宗太とその仲間が休んでおりました。そこに笠をかぶった娘子が店先を通ったのです。酒が入っていたからでしょうか、宗太がからかって、娘の笠に手をかけたとき、信長様がさっと現れ、宗太の左腕をばっさりと切り落としてしまわれました。例え誰であろうとも、許されないことはお許しになりません。」
「なんと苛烈なことよ、しかし、宗太とやらは信長様を恨んだであろう。」
「いいえ、恨んだりした者が、ああして、信長様の踊りの音頭を取るものですか。宗太は非を詫び、ますます信長様のために尽くしました。今は先ほど話しましたように家業を継ぎ、尾張随一の問屋になられました。そうそう、同じ櫓の上で宗右衛門さんの太鼓に合わせて歌っているのが、腕を切り落とされたときの娘さんじゃ。今は夫婦じゃ。あっははは。」
和尚は愉快そうに笑った。
「お父様、一緒に踊りましょうよ。」
いつのまにか姫が来て、影春の手を引く。
「そのように父上を困らせるのではないぞ。」
姫の後ろから信長が声をかける。
「この美しい姫様は沓掛城の姫君でしたか。」
和尚がにこやかに言うと
「はい、杜若と申します。信長様がかきつばたのようなおなごになれとおっしゃったので、名前を杜若にしたの。そして信長様のお嫁さんになるお約束をしたの。」
と杜若姫はにっこり笑って言った。
「それは、それは姫ならば、さぞやかきつばたのようにお美しい奥方となられよう。」
一層にこやかになって和尚が応える。
五月は自分を杜若と呼んでくれるよう、父母にも家来にも求めた。言い出したら聞かない姫であることを皆の者も知っていたので、杜若と呼ぶようになっていた。
「わしは帰る故、姫を頼むぞ。」
信長は近藤景春に言うと、
「姫、また遊ぼうぞ。」
杜若姫に声をかけた。
「はい、本日は楽しゅうございました。」
の杜若姫の返事を聞くと背を向け歩き出した。
「皆の衆、信長様がお帰りになられますぞ。」
和尚が叫ぶと、踊っていた者たちは踊りをやめ口々に「またいらしてくださいませ。」と信長に声をかけた。
信長はその声に、握り拳を高く突き上げて応えた。
拳を高く突き上げた信長の後ろ姿に
「おお」
と歓声が起きた。
「近藤殿、近藤殿」
二度呼ばれて近藤景春は我に返った。
「近藤殿、ご覧の通りでござる。もはや、今川方に戻ることはできますまい。沓掛にご家来衆とともにお帰りなされ。」
と梁田政綱に言われたとき、近藤景春は
「城に帰してくださるか、あいわかった。そういたす。」
と、なぜだか素直に従う気になった。信長の拳を高く突き上げたあの後ろ姿を見たからだろうか。
その時、辺りは一気に暗くなり、激しく風雨が吹き付けてきた。信長様は雷神までも連れてこられたかと近藤景春は思った。
その風雨とともに「ウオー」という声が聞こえた。信長が今川義元本陣に攻め込んだのであろう。
「さあ、早くこの嵐に紛れて、沓掛へお戻りなされ。ご家来衆も待ってござる。」
小屋を見ると小屋の前に縄を解かれた家臣達がこちらを見ていた。
近藤景春は丘を駆け下ると
「さあ、城に戻ろう。」
と声をかけた。皆は無言で頷いた。
嵐の中、近藤景春を先頭に沓掛城に向かって歩き出した。なぜか誰も近藤景春に声をかけてこない、近藤景春も何も聞けなかった。皆無言で歩みを進めた。鎧のこすれる音と、足音だけがする。
しばらく歩いていると、嵐が嘘のようにやんだ。そして「えいえいおー」という勝ちどきが遠くから聞こえてきた。皆顔を見合わせた。この勝ちどきは信長様の勝利の勝ちどきに違いないと誰もが思った。
桶狭間で休息している今川義元の兵は500足らず、襲いかかっていった信長軍は2000ほどはいた。一気に勝負を決したに違いなかった。それにしても、いきなり現れ、嵐とともに襲いかかり、たちまち敵を討ち取る。信長様の戦いぶりは鬼神のごときものだ、近藤景春はただ驚くばかりであった。
だか、ふと思った。今川義元が桶狭間で休憩していなかったら、信長様が襲いかかったときには、もうすでに今川義元は桶狭間を通り過ぎていたはずではないか、たとえ追いかけても、桶狭間から大高城まで一里(4キロメートル)しかない、大高城に逃げ込むことができたはず。
今川義元が桶狭間で休憩することになったのは全く予期せぬこと、なんと運に恵まれたことか。信長様には「運」まで味方するのかと思った。
「おお城だ。」誰かが叫んだ。
遠くに小さく城の屋根が見える。もうすぐ城に着く、皆の進みが早くなった。
5 木下と梁田の回想「信長と杜若の再会」へ
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3 戦い当日
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「拳を突き上げる信長」
5 木下と梁田の回想
「信長と杜若の再会」
6 大高城の松平元康
7 木下と梁田の回想(戦い後)
「信長の戦略」
8 木下と梁田の回想(戦い後)
「杜若の策」
9 帰城した景春と杜若
10 信長勝利直後
11 一ヶ月後の岡崎城の元康
12 一年後の景春の隠居所
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