5 木下と梁田の回想 「信長と杜若の再会」

 近藤景春とその家臣を沓掛城に返した梁田政綱と木下藤吉郎が、二人だけで小屋の中で座り込んで話していた。嵐はまだ続いている。そのため、戦いの様子が分からなかった。手下に偵察に行かせてあるので、すぐにでも報告があるであろう。
「まったく、藤吉郎殿、お主が吉蔵ではなく、同じ織田家中の者だったとは驚いた。何年吉蔵として沓掛にいたのだ。」
「十年を超えまする。」
「十年を超えるとはなあ、よくぞ気づかれずに隠しおおせたものよ。わしも曹源寺で信長様から言われた時は驚いたが、近藤景春殿はお主の正体を知ったとき、狐につままれたような顔をしていたぞ。実にたいしたものだ。」
「いや、最初から気づかれていました。」
「えっ」
 と梁田政綱が顔を上げると、
 木下藤吉郎は「違う、違う」というように手を振って
「気づいていたのは、お方様(信長の側室)になられた杜若様だけです。お方様になられたことはわしら二人しかしらぬことだが。」
「杜若様が。」
 梁田政綱は怪訝そうな顔をした。
「梁田様も覚えておいででしょう。わたしが信長様に連れられて沓掛に行ったときのことを。」
「ああ、信長様が道ばたで餅を売っていたお主を連れて沓掛に行った時のことだな。あれが仕組まれていたことだったとは、わしも全く気づかなかった。殿もお人が悪い。」
「申し訳ございませんでした。」
「お主が謝ることでもあるまい。確かあのとき、杜若様は七つか八つのほんの子供であったであろう。あの時も信長様の膝の中でうれしそうにしていた。その杜若様に気づかれたというのか。」
 梁田政綱はその時のことを思い出した。

 沓掛城に着くと信長は門番に声をかけ、恐縮する門番をせかせて、門番小屋へ入っていった。梁田政綱は信長が来城したことを門番の代わりに告げた。すぐに杜若が飛び出してきて、あたりを見渡し、まるで信長がいることを知っているかのように門番小屋へ走っていった。
「何と勘のいいことよ」
 と梁田政綱は思った。やがて近藤景春と奥方も急いで出迎えようと出てきたが、杜若や、信長の姿がないので、どこにいるのかと周りを見渡し、梁田政綱に
「信長様はどちらにおられるのか。」
 と聞いてきた。杜若のようには勘は働かないらしい。
 梁田政綱が門番小屋に案内すると、門番小屋から賑やかな声が聞こえる。近藤景春がいぶかしげに小屋をのぞくと、門番達と信長がいろりを囲んでいる。信長のひざの中にはちゃっかり杜若が入り込んでいる。
「これは、これは信長様、このようなところで」
 近藤景春が言いかけると、その声で門番達が下がろうとするのを信長が両手を広げて止め、
「お前達は座っていろ」
 と命じ、
「実はな、来る途中で、餅売りを見てな、ここへ初めて来たときに、門番達に痛い思いをさせてしまったことを思い出し、そのお詫びのつもりで餅売りを連れてきた。今日は門番が主役だが、そちにも食べさせてやろう。そこへ座れ。」
 そういえば見かけない者がかいがいしく餅をひっくり返している。近藤景春を見て、その者が平伏しようとすると信長が
「このように狭いところで、みんなで餅を食おうというのだ。無礼講でよい。」
 と言いい、
「ほら、焼けたようだ。姫、熱いぞ、気をつけろ。」
 と餅を膝の中の杜若に渡した。半分近藤景春があっけにとられていると奥方が
「お茶とお酒がいるでしょう。用意しますわ。ほらほら、あなた様も皆様の中に入って、信長様がおっしゃったように無礼講、無礼講。」
 と言って近藤景春の背中を押した。
 門番にも城主にも物売りにも茶や酒を用意してきたおなご衆にも、そして子供の杜若にもまったく分け隔てなく接する信長によって、その場はおしゃべりと笑いと歌に包まれた。
 梁田政綱は門番小屋でのことを思い出し、本当に信長様は不思議なお方じゃと思った。

「梁田様は覚えておられないと思いますが、」
 木下藤吉郎の言葉に梁田政綱は我に返って、
「ああ、」と言った。
 木下藤吉郎は続けた。
「門番小屋で信長様が、わたしを使ってやってはどうかと景春様におっしゃったのです。その時のことです、景春様は突然のことで返事できないでいると、杜若様はわたしと信長様、両方の顔を交互に見て、にっこりとなさり、『母上、台所に男手がいるとおっしゃっていたわよね』と言われた。
 奥方はえっというようなお顔をされたが、すぐに『そうですね。男手がほしいわ。殿、その者を台所方に』と景春様におっしゃってくださった。それでわたしは沓掛にご奉公できることになった。
 杜若様は何もかも分かっていて助け船を出されたに違いないと思うのです。」
「しかし、それはお主の思いすごしでは。」
 と梁田政綱が言うと。
「実は、信長様と梁田様を曹源寺にお呼びするように、杜若様から命じられたとき、」
 と木下藤吉郎は半月程前のことを話し始めた。
「杜若様に部屋に呼ばれて、信長様と梁田様にお会いしたいので曹源寺までご足労くださるようお伝えしてほしいと言われ、わたしは、『えっ』とどぎまぎしました。
 今、杜若様と沓掛にとって信長様と梁田様は敵であるはずです。その敵に会う段取りを自分にしろとは、まさかと思いましたが、どこかやはりという思いもありました。そんなわたしを見て杜若様はにっこりと笑っていらっしゃる。
 わたしは思わず『いつから信長様の命をうけてここにいることをご存じでしたか。』と聞いてしまいました。すると杜若様は『もちろん最初から』とお答えなさったのです。
 そして『どのようなことがあってもお会いせねばなりません。頼みました
よ。』
 とおっしゃって部屋を出て行かれた。わたしは自分がじっとりと汗をかいているのが分かりました。」
「なるほど、ならばきっとそうであろう。」
 と梁田政綱も杜若の勘のよさが人並みでなかったことを思い出して言った。
 木下藤吉郎は姫の頼みを果たすため、信長に会いに行ったときのことは、梁田政綱には話さなかった。話さなかったがその時のことを思った。

 木下藤吉郎はすぐさま沓掛城を抜け出し、清洲の信長にその旨を伝えた。信長様が杜若様の願いに応じてくださるかどうか、もし、「否」と言われたら、今までは信長様に異を唱えることなど考えもしなかったが、このたびばかりは、なんとしても杜若様の願いを叶えたい。杜若様に信長様を会わせたい。そんな思いで信長の返事を待った。
「あい分かった。梁田にも伝えよ。時は二日後、曹源寺にも手配せよ。」
「姫に『早う会いたい』と信長が言っていたと伝えよ。」
 と信長が言った。
「はは、早速に。」
 思わず大きな声が出てしまった。
「おい、さる、おまえがうれしそうだな。」
 信長が冷やかすように言った。
「おい、さる。そちがわしの手の者だと姫は知っておったのか」
 と信長に問われ。
「はじめからだそうです。」
 と答えると。
「ふむ、なるほどな、杜若姫は怖いのう。」
 と信長がうれしそうに言った。
 梁田政綱、曹源寺と連絡をすませ、杜若に信長との会見が成ったことを報告した。もちろん信長の言葉も伝えた。
「ありがとう、うれしいわ。」
 と杜若様は素直に喜び、輝くような笑みを見せてくれた。しかし、あのときその笑みの奥に決意のようなものがあることも感じた。

「なあ、藤吉郎どの、沓掛が今川方になって、ここ何年か杜若様にお会いすることがなかったが、曹源寺でお会いしたとき何と美しいお方になられたかと、目を見張ってしもうた。そればかりかあの折の杜若様は何というか、わしには近寄りがたいお方であった。」
 梁田政綱が感慨深げに言った。
「わたしも同じです。あの日の朝・・・・・」
 木下藤吉郎は梁田政綱に話した。

「『吉蔵さん、供をお願いします。母上には曹源寺にお茶の稽古に行くといってあります。遅くなるようなら寺に泊まるかもしれないとも伝えてあります。今日は駕籠で行きますので、用意をしてください。』といつものように丁寧な言葉でおっしゃった。
 普段は動きやすいのが一番いいと、髪も後ろに縛り袴姿の杜若様が、その日は髪もとかし、打ち掛けを着ていらっしゃった。そしてうっすらと化粧さえも。
 このような杜若様を見るのは初めてでした。あのときは杜若様がまぶしく見えました。信長様に早くご覧いただきたいと思いました。
 曹源寺に着きますと、年はとったが相変わらず達者な和尚が出迎えてくださった。和尚は杜若様をご覧になると目を丸くし、『おうおう。』と言うと、いとおしそうに杜若様を見つめていらっしゃった。杜若様はにっこりとなさり、挨拶をされた。
 わたしが勝手に駕籠を城に返したが、杜若様は何もおっしゃらなかった。
和尚は『男雛はすでに飾ってござる。ささ、拙僧が案内する故ついてこられよ。さっそく女雛を飾らねばならん。季節外れのひなまつりぞ。ふふ』とうれしそうにおっしゃって、寺の奥の離れ座敷に案内してくださった。
 正面に信長様が脇息を前に置き抱えるようにして座っておいでであった。
 杜若様が三つ指をついて挨拶されると、信長様は前に置いた脇息を横に置き、立ち上がって、杜若様の所までいかれ。手を取って立たせると、二、三歩後ろに下がって、姫を見ておっしゃった。『おう、何と美しいかきつばたの花になったものよ。』と。
 わたしは、信長様のあのお言葉がうれしかった。なみだが出てしまいました。」
 と木下藤吉郎が言うと。
「わしは、杜若様の美しさに目を見張っているばかりであったが、確かにお主はたとえ間者であったとしても、幼子から美しき乙女に成長する杜若様を見てきたのだからな。無理もない。」
 梁田政綱が頷いた。
「はい、それだけでなく杜若様の心を思ったからです。杜若様の心の中にはずっと信長様がいらっしゃったのです。それなのに沓掛が今川方についてからというもの、会うことさえできなかった。」
 木下藤吉郎はしみじみと言った。
「そうそう、信長様が杜若様をご自分の横に座らせなさった時、和尚は『お雛飾りができあがりましたな。この座敷には誰も近づきませぬ。では拙僧はこれで。』とおっしゃったが、まさにお雛飾りでしたな。」
 梁田政綱は信長と杜若のその時の様子を思い浮かべて言った。
「それにしても、あの場でお主が信長様の間者だと知ったときは驚いたが、それ以上に杜若様のお考えを聞いたときは、何というか・・」
 と梁田政綱が言うと
「はい、杜若様は美しいだけでなく、実に聡明なお方だとは思っていましたが、わたしの考えの及ばないほどのお方でした。」
 と木下藤吉郎が答えたその時、
「えいえいおうー」という勝ちどきが聞こえた。いつの間にか嵐は去っていた。
 二人は思わず立ち上がった。
 どんどんと戸がたたかれる音と共に
「信長様の大勝利です。」
 と言う声が聞こえる。
 戸を開けると、手下が飛び込んできて、
「信長様が今川義元の首をお上げになりました。」
 上気した顔で報告した。

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  「拳を突き上げる信長」
5 木下と梁田の回想
  「信長と杜若の再会」
6 大高城の松平元康
7 木下と梁田の回想(戦い後)
  「信長の戦略」
8 木下と梁田の回想(戦い後)
  「杜若の策」
9 帰城した景春と杜若
10 信長勝利直後
11 一ヶ月後の岡崎城の元康
12 一年後の景春の隠居所

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