7 木下と梁田の回想(戦い後)「信長の戦略」

 先ほどの桶狭間の小屋では、信長が今川義元を討ち取ったという報告を受け、
「なんと。まことに、お方様(杜若)のお考え通りになった。」
 木下藤吉郎と梁田政綱は顔を見合わせた。
「殿がお二人はしばらくここにいるように、後ほど指示するとのことです。」
 と手下が言ったので
「分かった。そちは小屋の周りの警備に当たれ。」
 と言って、手下が小屋を出た後、また顔を見合わせた。そして二人は互いに曹源寺での杜若をまた思い返した。

 信長が杜若を横に座らせた後
「杜若、何かわしに言いたいことがあるのであろう。言ってみろ。」
 杜若の顔を見て言った。
 杜若は体の向きを変え信長に正対して言った。
「では申します。」
「松平元康に今川義元を討たせてはなりませぬ。殿自身が討たねばなりません。」
 杜若の意外な言葉に、梁田政綱も木下藤吉郎も何のことだか分からないという顔をした。だが信長は杜若を見ずに、正面を向いて、
「松平元康が今川義元を討つとは。」
 と杜若に問うた。
「信長様がそのように仕掛けられたからでございます。」
 杜若は答えた。
「杜若、よく分かるように話してやれ、あのふたり『なにがなにやら』という顔をしておる。」
 信長は表情も変えずに言った。
「はい、」
 杜若は正面に向き直ると、梁田政綱と木下藤吉郎に聞かせるように話し始めた。
「此度の今川方の攻撃も、今川義元が出張ってくることもすべて、信長様がそうなるようになさったからです。」
 梁田政綱も木下藤吉郎もまだ理解できず、先を促す顔をしている。
「此度、今川義元が尾張攻めのために出陣するのは、信長様がそうなるようにし向けたからです。もともと今川義元には尾張攻めの気持ちはありませんでした。
 今川義元にとって、もっとも関心のあるのは、北の武田と東の北条からの脅威です。現在、今川と武田と北条とは、三竦みの状態です。互いに隙あらばとねらっています。
 そんな状態の中で、駿河を留守にして、三河のさらに向こうにある尾張まで、軍勢を率いて攻め込むなどということはできないのです。」
「あのう、今川が武田や北条と約定を結んだと聞き及びますが。」
 木下藤吉郎が恐る恐る言った。
「藤吉郎殿は駿河にお詳しいようね。」
 と杜若がにこっとして言った。
 木下藤吉郎はどぎまぎして顔を伏せた。
 杜若が話を続けた。
「そうです今川は武田や北条と甲相駿三国同盟を結びました。逆にこれこそが、今川義元が駿河を出ることができない証になります。なぜなら、同盟を結ぶということは、駿河、相模、甲州の三か国のせめぎ合いが拮抗し膠着状態にまで高まったことを表しているからです。
 同盟は決して手を結びあったのではないのです。互いが隙あらばと狙っている状況が極限に達した結果であるとさえ言ってもいいでしょう。
 そんな状況だからこそ、今川義元は駿河の兵を連れて出てくることができないと申したのです。
 ところがこのたび、今川義元が尾張まで出てくることになったのは、信長様におびき出されたからです。」
「おびき出されたとは。」
 と梁田政綱が聞いた。
「はい、今川義元は信長様におびき出されたのです。おびき出すには、まず出て行きたくなるよい囮が必要です。その囮とされたのが鳴海城です。
 鳴海城を今川方にわざと渡しておきながら、時をみてその鳴海城に今やっているように付け城をつけて圧力をかける。
 そうすれば、当然今川義元に助けを求める。その求めに応じて今川義元が駿河の国から尾張まで出てくる。これが今川義元をおびき出すということです。」
「えっ、鳴海城を今川方にわざと渡したとはどういうことですか。」
 またもや梁田政綱が聞いた。
「ご存じのように鳴海城の山口教継が、信長様から今川義元へ寝返りましたね。これは信長様が寝返るようにし向けたからでしょう。」
 杜若はちらっと信長を見た。しかし、信長は知らん顔して、何も言わない。
「でも、これではまだ囮として小さい、もう少し囮を大きくさせます。それが山口教継の大高城攻めと、刈谷城と我が沓掛城の今川方への鞍替えです。
 これで囮が尾張東部全域となり、おびき出しの囮として十分な大きさになりました。こうなれば今川義元の食指が動きます。」
「ななんと、尾張の東部が次々に今川方になっていったのは、今川方に攻め込まれていると思っていたのですが、それが、そうではなく信長様の策略とは。」
 梁田政綱は信長をあきれたという顔で見た。しかし信長は表情を変えない。
「尾張方の鳴海城、大高城、刈谷城、沓掛城が今川方になり、尾張東部がいかにも今川方に攻められているように見えます。しかし、考えてみてください。一度でも今川方が出陣してきたことがありましたか、
 ただ裏切った山口教継との戦があっただけです。その戦も信長様は勝てる戦であったにも関わらず追撃しませんでした。また、山口教継の大高城攻めでは、信長様は援軍もお出しにならなかった。沓掛城や刈谷城などが今川方に寝返るのも予定の内です。もっとも状況次第でいつでも戻ってきます。」
「言われてみれば、その通りです。」
 と梁田政綱。
「それだけでなく、こうして用意した囮をさらにもう一手間加え、本物の囮にしたのです。それが山口教継を今川義元に殺させることだったのです。」
「えっ、今川義元が山口教継を殺したのも信長様がし向けたことと言われるか。」
「はい、その辺は藤吉郎様と言うより吉蔵さんがよく存じよね。たぶん山口教継の裏切りの証拠になる物を作り上げ、今川義元に渡るように謀ったのだわ。」
 これを聞いて、梁田政綱が木下藤吉郎を見ると木下藤吉郎は下を向いている。
「囮が本物の囮になるとは、どういうことだ。」
 今まで黙って聞いていた信長が杜若に問うた。
「鳴海城の城主が山口教継のままだったら、今川義元は出てこないかもしれない。どうしてかといえば、山口教継が信長様を裏切ったことで、尾張の東部が手に入った。しかしこれは今川義元にとってあまりに都合がよすぎる。先ほど言ったように、山口教継が信長様を裏切ったのも、今川側からの働きかけによるものではなかった。むろん攻め込んで手に入れた訳でもない、何もしないのに手に入った。このことは今川義元もよく分かっている。
 猜疑心の強い今川義元は、自分にとって都合がよすぎることに疑念を抱くはずです。ひょっとしたら山口教継が信長を裏切ったのは、罠かもしれないという疑念です。その疑念があったからこそ、信長様の策にまんまとはまり山口教継を殺したのです。
 今川義元は山口教継を殺し、鳴海城に腹心の家臣の岡部元信を入れました。敵が用意した囮を、自分で取り替えたとき、もはや今川義元にとってそれは囮とは感じなくなります。
 そしてきっとこう思ったはずです。『たとえ信長の罠だとしても、その罠を逆手にとって尾張東部を自分の物にしたぞ。自分の方が一枚上だ。』と。これが一手間加え、囮を本物の囮にすると言うことです。」
 信長は杜若の答えに何も言わない。ただ杜若をちらっと見て、にやりとしたようだった。
「しかし、姫様は先ほど今川、武田、北条の三竦みで今川義元は出てくることができないとおっしゃいましたが、この囮ならば出てくると言うことでしょうか。」
 はじめて木下藤吉郎が口を開いた。
「そうね。でもやはり出てこられないでしょうね。ところがこの『手に入った尾張東部は手放したくない、が、出るに出られない』、という状況に今川義元をはめることがこの仕掛けの肝。そうでしょ。信長様。」
「こやつめ」
 信長は杜若の頬を指で突いた。
「あら。」
 と言って杜若がにっこり笑う。
 信長と杜若のやりとりを、ぽかんとした顔をして梁田政綱が見ていた。
「分かるように話してやれ。」
 と信長に促され、杜若は話を続けた。
「はい、自分のものになった尾張東部は出て行って助けねば失う。助けに出て行けば、駿河、遠江が留守になり、武田、北条がこの留守につけ込んで攻め込んでくるかもしれない。こうなったとき、今川義元が考えつくことは一つ。」
 と言って、姫が梁田政綱と木下藤吉郎の二人を見た。
 下を向いていた木下藤吉郎がつぶやいた。
「三河勢を使う」
「そうね。三河勢を使うことよね。そうすれば、駿河、遠江の自領の兵力はそのままだから、武田や北条が攻めてくることはない。
 三河勢を使って尾張勢を追い払えば、尾張東部を完全に自分の物にすることができる、と今川義元は考えるわ。そしてここで大切な役者が登場することになるの、誰だか分かるわね。」
「松平元康でしょうか。」
 とまたしても木下藤吉郎が答えた。
「そう、松平元康ね。藤吉郎殿は当然ご存じよね。」
 杜若がにこりと笑う
「えっ、あっ」
 木下藤吉郎がどぎまぎするのもかまわずに杜若が説明を続けた。
「三河勢を使って尾張に攻め込ませる場合、三河勢をまとめるのは当然三河勢の大将である岡崎城主が適当です。ところが今は今川から送りこまれた朝比奈泰朝が城代を務めています。
 朝比奈泰朝は城代として駿河から単身送り込まれただけ、三河勢は自分たちの大将とは思っていない。これでは朝比奈泰朝が指揮を執っても、三河勢の士気は上がらないでしょうね。」
「そうか、そこで松平元康を大将にして、三河勢を働かせようというわけだ。今川義元のことだから松平元康の岡崎復帰をちらつかせるに違いない。そうすれば三河勢にとっては念願である松平元康の岡崎復帰を叶える絶好の機会となり、命がけで戦うだろう。ということですね。」
 今度は梁田政綱が分かったぞと言わんばかりに言った。がすぐに
「でも、これでは今川義元が出てこなくてもよくなってしまいます。」
 と杜若にさらなる疑問を述べた。
「うふふ、それが出てくるの。必ず出てくるわ。今からお話しすることが、信長様の仕掛けのもっとも絶妙なところなの。」
 杜若が信長の顔を見ると、信長は目をつぶって「さあ、話せ」といった顔をした。
「松平元康を大将として三河勢に尾張攻めをさせることは、今川義元にとって自分自身の兵力を温存しておいて、尾張東部を完全に自分のものにできるよい策だけれども、そうすると実は一つ困ったことになるのです。
 この尾張攻めが勝利すれば、大将である松平元康の手柄となる、当然その功に報いるために岡崎城復帰を認めなくてはならなくなることです。
 しかし、今川義元にはその気がない。気がないと言うよりは、絶対に認めないに違いない。現に今までにも、岡崎城復帰を認めてもよかろうと思われる機会はありました。まず松平元康が元服したとき、次に今川義元の娘をめとり娘婿となったときです。ところが今川方の有力な武将となった今でさえ岡崎城復帰を認めようとしません。
 今川義元は、松平元康が岡崎城に復帰し、三河勢が一つにまとまることが、自分にとっては脅威になると考えているからです。
 そこで、今川義元はこう考えるに違いないのです。『松平元康のもとで三河勢に尾張攻めはやらせる。しかし、全体の指揮はわしが執る。尾張攻めはあくまでわしの戦で、元康はわしの指揮に従うに過ぎない。そうだ自領の兵を引き連れて出て行かずとも、自分の本陣だけを引き連れて行けばよい。戦いは三河勢が松平元康の岡崎城復帰をかけて必死に戦うであろう、自分は後ろからその戦いぶりを見ていればよい。』と」
 梁田政綱は「うーん」とうなってばかりいる。杜若は続けて言った。
「さてその本陣ですが、直接戦いをするつもりはないので数百名程度で、しかも戦などしたこともない、今川義元の取り巻き連中ばかりであろうと考えられます。」
 杜若は一呼吸置き、断定するように言った。
「信長様が意図なさったのは、裸の今川義元を尾張まで引っ張り出し、その今川義元の周りには三河の松平元康の軍勢だけとなる状況を作り上げることです。」
「さっ、さすれば、もし松平元康が今川義元を討とうとしたならば・・。あっ姫がおっしゃった『松平元康が今川義元を討つ』とはこのことですか。」
 そう言った梁田政綱は「うーん」とまたうなってしまった。だが、何か得心がいかないというように言った。
「と申しても、松平元康が今川義元を討つかどうかなど分からないではありませんか。」
 言われた杜若は木下藤吉郎に向かって聞いた。
「藤吉郎様、いやこの場合は吉蔵さんと呼ぶのがよいでしょう。吉蔵さんは三年前の春、我が沓掛に『お暇をいただきたいと。』と申し出られた。なぜかと尋ねると年老いた母親が病に倒れたので、面倒をみるためお暇がほしいという。わたしは得難い人物なのでやめさせるわけにはいかない、一ヶ月の間休みを差し上げるから、親孝行をして戻って来てくださいねとお願いしました。
 去年と、今年の同じ頃には私の方から休みを取るように命じましたね。そして吉蔵さんは休みをお取りになった。さて、お母上は駿河にお住まいか。」
 言われて木下藤吉郎は「誠に申し訳ありませんでした。」と畳にはいつくばっている。
「これ、姫、もういいだろう。そうさるをいじめるな。」
 と信長は杜若に向かっていった後、木下藤吉郎に
「これ、さるお前はいったい姫に何本取られておるのだ。あっははは。」
 と言って大笑いし、
「さるよ、姫に話してやれ。」
 と言った。
 顔を上げた木下藤吉郎は話し始めた。
「三年前、信長様に呼ばれて『竹千代も元服をすませた。まだ幼かった竹千代と、尾張にいた頃に約束したことがある。その約束を覚えていて、果たす気があるか、確かめてもらいたい。駿河のやつの屋敷の近くで花売りの行商になって待っておれ、やつがまだ約束を覚えていて果たす気でいれば、合い言葉を言うだろう。
 約束したことを忘れているか、または覚えていても、その気がなければ黙って通り過ぎるはずだ。やつはそちの顔を覚えていよう。お前の顔は忘れられない顔だからな。』そのように命じられ、駿府に行きました。」
「合い言葉があったのね。合い言葉ってどんな言葉なの。」
 杜若が興味を持って、木下藤吉郎に聞いた。
 聞かれた木下藤吉郎は答えずに信長を見た。
 すると信長が
「約束とは元服が済んだならば共に戦おうということだ。合い言葉は。」
ちょっと言いよどんで、
「『かきつばたは咲いたか。』だ。」
 とぶっきらぼうに言った。
「まあ」
 と杜若が嬉しそうに笑った。
「はい、咲きました。本当に美しく咲きました。」
 と木下藤吉郎があまりに誇らしげに言ったので、皆が声を上げて笑った。
 笑いが収まった時、梁田政綱が不思議そうに言った。
「信長様と松平元康が約束したのは、松平元康が確か六歳ぐらいの時かと、しかも十年以上も前のことをよく覚えていたものだ。」
「あら、わたしだって、信長様がお嫁さんにしてくださるというお約束、ずっと忘れないでいるわ。」
 と杜若が信長を見ていった。
「わしも覚えておるぞ、なんと言っても姫の肌を見たのはわしだけだからな。」
 二人のやりとりを聞いて、梁田政綱は信長が川で幼い杜若を助けたときのことを思い出した。たとえ幼いときのことであっても、また月日が流れても忘れないで果たそうとする約束はあるにちがいないと納得した。
 その時、杜若が両手を突いて、言った。
「松平元康殿に今川義元を討たせてはなりません。信長様ご自身が今川義元を討たねばならないのです。もしも松平元康殿が今川義元を討ったならば、信長様はその松平元康殿を討たねばなりません。」
 信長は杜若の手を取って、杜若の顔を見た。目に涙をためている。
「姫、そちの気持ちはよく分かった。すべて姫の考えの通りにいたす。さあ、あのように心配そうにお前を見ている二人にも分かるように話せ。」
「はい、ありがとうございます。では申します。」
 梁田政綱と木下藤吉郎に向かって話し始めた。

   
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  「拳を突き上げる信長」
5 木下と梁田の回想
  「信長と杜若の再会」
6 大高城の松平元康
7 木下と梁田の回想(戦い後)
  「信長の戦略」
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  「杜若の策」
9 帰城した景春と杜若
10 信長勝利直後
11 一ヶ月後の岡崎城の元康
12 一年後の景春の隠居所

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