8 木下と梁田の回想(戦い後)「杜若の策」

「戦いは手段であって、目的ではありません。信長様が今、今川義元と戦うならば、その目的とすべきことは何でしょうか、そしてその目的は信長様にとって、今もっとも重要なものでなくてはなりません。」
 しばらく間があった後、梁田が言い出した。
「あのう、最初は尾張東部を取り戻すためと思ったのですが、考えてみれば、もともと尾張東部はとられたものではない。信長様が今川義元をおびき出すための囮としたものでした。
 次に今川義元を討ち取って、遠江、駿河に攻め込んで・・、と思いましたが、今川義元一人討ち取ったところで、今川方の軍勢はすべて残っているし、遠江、駿河に攻め込むのは得策ではない。改めて考えてみますと、わたしにはどうも考えつかないのですが。」
「梁田は正直者よ、さる、お前はどうじゃ。」
 と信長が木下藤吉郎に問うた。
「はい、今川義元を討ち取れば、松平元康様が三河の岡崎城に入ることができる。さすれば松平元康と手を結ぶことで、東からの脅威がなくなります。」
「姫、どうじゃ」
「はい、梁田様のおっしゃった通り、今川とのこの度の戦では、信長様には実として得るものはないのです。
 藤吉郎様がおっしゃったように、東を気にする必要がなくなり、西に力を注ぐことができます。しかし今の信長様にはその前に果たしておかなくてはならないことがあるのです。それこそが本来の目的です。」
 信長だけがさあ先を話せと促すように、うんと頷いた。
「その本来の目的とは、尾張を信長様のものとすることです。今はこの目的以外の戦いはしてはなりません。むろん松平元康殿のための戦いなど論外です。」
 杜若が言い切ったとき、信長は
「わっははは、まいった、まいった。姫はわしのことだけを考えていてくれる。ほんにお前はわがよき妻じゃ。」
 信長が杜若を抱き寄せた。杜若は抱き寄せる信長の顔を潤んだ目で見たが、
「殿、お待ちください。お二人にまだ話さなければなりません。」
 杜若は肩に掛かった信長の腕を外すと、改めて話し始めた。

「殿は今まで尾張の中で、お身内衆(実弟織田信行・叔父織田信光)とも、譜代の家臣(尾張一の猛将柴田勝家・織田家筆頭家老林通勝)とも苦しい戦いをなさり、常に勝ちを収めてみえました。すでに殿に戦いを挑む者はなく、一見尾張を統一したかにみえます。
 しかし力で従えただけの者は、これから殿がなさろうとすることには役に立ちません。心から殿を信じて従う者達こそが必要なのです。殿を心から信じ、従う者達を得たとき、尾張は本当の意味で殿のものとなります。さすればこそ殿のこれからの道が切り開かれるのです。
 この度の今川との戦で殿が今川義元を討ち取ったならば、どうでしょう。今川義元は駿河、遠江、三河3国を支配する大大名、一方殿はようやく尾張一国をまとめたに過ぎない、殿が今川義元を討ち取ることなど誰が考えましょう。
 織田方の中でさえ、籠城するしかないとか、今川の軍門に下り家名を保つしかないとか言う者さえいると聞きます。
 その中で見事今川義元を殿が討ち取ったならばどうでしょう。尾張のすべての者は殿に心服し、畏敬し従うでしょう。そればかりか天下に殿の『織田信長恐るべし』の名声が広がります。これも今後の殿に有利なものとなりましょう。これこそがこの度の戦いの目的でなければなりません。
 そのまたとない機会を殿は作られました。しかし、たぶんこれは松平元康殿との約束を果たすためのものではなかったかと思います。
 岡崎城の城主松平広忠がなくなった後、跡継ぎの竹千代(松平元康)を本来は岡崎に戻すべきであったのに、今川義元は戻さず、代わりに城代として朝比奈泰朝を入れました。
 これ見届けて殿は策を講じ始める。それが鳴海城をはじめとする囮づくりです。そして松平元康殿の元服を待って、いよいよ策を実行しようとなされています。
 しかし今のままでは、殿が今川義元を討つのは難しい、三河勢のまっただ中に今川義元を入れて、松平元康殿に今川義元の首を取らせようと殿は考えていらっしゃるのではありませんか。」
「うん。」
初めて信長が明確に答えた。
「それはなりませぬ。松平元康殿が今川義元の首を取ったのでは、わたしが先ほど言いました本来の目的は果たせません。
 尾張の者は今川義元が松平元康殿に討ち取られても、殿の策であるなどと誰も考えません。それどころか松平元康殿のおかげで助けられたとさえ思うでしょう。これでは本来の目的の逆効果になってしまいます。
 また、松平元康殿としても今川義元を討ち取って、岡崎に帰ることができたとしても、卑怯な主殺し、義父殺しの汚名を着ます。境を接する今川方には今川義元の敵討ちという大義名分ができ、いつ攻め込んできてもおかしくありません。松平元康殿は厳しい状況に置かれることになります。
 今ひとつわたしが懸念することは、殿のお心の中に『松平元康に卑怯な主殺し、義父殺しをさせた』という松平元康殿に対する負い目が生じることです。
 殿には誰にも、何にも惑わされることなく、ご自分の道を進んでいただきたいのです。」
 杜若は信長をにらんだ。
「まいったな。そういう目で見るな。わしがこの世で唯一弱いのはそちのその目じゃ。そちの考え通りにすると言ったであろう。」
 信長の言葉を聞いて杜若は、一つ頷き、熱いまなざしで信長を見返すと、木下藤吉郎と梁田政綱の両名に向かってゆっくりした口調で言った。

「殿は、わたくしにお任せくださいました。今川義元を松平元康殿に、討たせるのではなく、殿ご自身で討ち取っていただくようにせねばなりません。
 わたしに考えがあります。お二人にも働いてもらわなければなりません。藤吉郎殿、頼んでおいた地図を殿の前に広げてください。それから、お二人も地図のそばに寄ってください。」
「はい、お方様」
 と木下藤吉郎が答えた。信長が杜若に「お前はよき妻じゃ。」といった後、杜若姫は信長のことを信長様とは言わずに「殿」と呼んでいることに気づいた。信長が妻と認め、杜若がそれを受け入れた。そこで木下藤吉郎はお方様と呼んだのだが、信長には濃姫という正室がすでにいたため奥方様と呼ぶのははばかられたからであった。
「お方様」と呼ばれ、姫は顔を赤らめてはにかんだ。
「そうじゃ、お前達はそう呼ぶがよかろう。わしも姫とは呼ばずに、杜若と呼ぶことにいたそう。」
 と信長が言った。杜若の目から一粒涙が落ちた。
 木下藤吉郎は杜若の涙を見て胸を打たれたが、あわてて地図を杜若と信長の前に広げた。梁田政綱も地図の前まで進み出た。
「駿河を西に進んできた、今川義元は岡崎、池鯉鮒(知立市)を過ぎた後、どこへ行くと考えられましょうか。」
 杜若は木下藤吉郎と梁田政綱に問うた。
 梁田政綱が
「尾張に近い大高城に入ると思われます。すでに松平元康が兵糧を大高城に運び込んだことが確認されています。」
 続いて木下藤吉郎が
「最終的には大高城でしょうが、大高城には鷲津砦と丸根砦が付け城として付いていますので、そのままでは入らないでしょう。かといって軍議も開かずに攻撃が開始されることもないはずです。お方様のおっしゃったように、今川義元は自分の手柄とするために軍議を開いてから、自分の指示で戦を始めるはずだからです。
 軍議を開き、大高城の付け城である両砦を落とし、安全になるまで待機してから大高城に入城すると思われます。
 そう考えればまず向かうのは、刈谷城、緒川城、沓掛城のどれかになりますが、緒川城は城といっても館程度で今川義元を迎えるには小さい、刈谷城か沓掛城のどちらかに入ると思われます。」
 と考えを述べた。
「もし刈谷城だとすると、その後どう動きましょうか。」
 と杜若がさらに問うと、木下藤吉郎が
「刈谷から境川を少し上流に上り、浅瀬で川を渡って、大高城に行くのが常道かと思いますが、もしかしたら、刈谷から今川義元は船で対岸の緒川城にゆき、そこから大高城に向かうかもしれません。」
 と答えると、
 梁田政綱が地図上に今川義元の動きを指でなぞって言った。
「今川義元が刈谷城から境川を渡り大高城に向かうにしても、舟で緒川城に渡り大高城に向かうにしても、今川義元を討つためにはずいぶん遠くまで出かけて行かなければなりませんぞ。」
「では、沓掛城に来るとしたらどうでしょうか。」
 と杜若が言うと
「はい、池鯉鮒から東海道を外れ、沓掛城に入り、そこから真西の大高城に入ることになりますが、これであれば沓掛城から大高城へ進む今川義元はぐっと尾張に近づきます。」
 と梁田政綱が答えた。
「では、まず我が沓掛城に来てもらいましょう。」
 杜若が言うと
「来てもらいましょうと申しましても。」
 と梁田政綱は聞き返した。
「今川義元が刈谷城へ行けないようにすれば、必然的に沓掛城にくることになります。」
 杜若の言葉を聞いて、木下藤吉郎が
「では、刈谷城の水野信元をこちら側につかせるのでしょうか。水野信元が今川義元を裏切れば刈谷城には入らない。と言うことでしょうか。」
 と釈然としないという顔で言った。
 杜若はゆっくりと話し始めた。
「少し違います。水野信元が裏切ったと分かったら、臆病な今川義元は沓掛城に来るどころか駿河に逃げ帰ってしまうかもしれません。そうではなく、水野信元を刈谷城から緒川城に移してしまい、刈谷城を空にするのです。さすれば、今川義元は空の刈谷城には入れずに、沓掛城に来ます。」
「なるほど、しか・・」
 言いかけた梁田政綱の袖を木下藤吉郎が引いた。
「松平元康殿が使者となり、沓掛城に事前の打ち合わせのために来城するとの知らせがありました。その折、殿になり代わってわたしから松平元康殿に指示いたします。
 一つ目の指示は、刈谷城の水野信元には、『今川義元が岡崎に入る前に、尾張攻めのために刈谷城から、少しでも多くの兵を緒川城に移し、今川義元様の指示があるまで待機するように、勝手に緒川城から動いてはならぬ。』と伝えることです。これで水野信元は緒川城に移り、刈谷城は空になります。
 次に、岡崎城に今川義元が着いたとき、面会を願い出て今川義元に『刈谷城の水野信元が功を焦ったのか、すでに全軍を連れて緒川城に移ってしまいました。刈谷城には大殿を迎え入れる準備もなく、入れません。申し訳ありませんが沓掛城にお入りください。沓掛城には至急準備させてあります。』と報告させます。
 ここで今川義元は立腹して松平元康殿を叱責されるでしょうが、十年以上も今川義元の下で耐えてきた松平元康殿には、この芝居がおできになります。今川義元もたとえ怒ったとしても、水野信元を呼び戻して叱りつけ、準備させる時間の余裕がないことは分かっています。
 その折り、今川義元に尾張攻めの作戦を事前に伝えて承認を得ます。そこでは、沓掛城の近藤景春は大高城までの道案内と見張りをさせ、緒川城に移ってしまった水野信元には大高城にて今川義元様の警護と城の守備のみをさせることを伝えます。
 これは、あとから寝返ってきた近藤景春や水野信元に手柄を立てさせたくない今川義元の考えに合致するので、難なく受け入れられるでしょう。これで今川義元は沓掛城に来ます。」
「うっひゃー。なんたる策略」
 梁田政綱はただ驚くばかりだが、木下藤吉郎が少し間を開けて、
「わたくしも、私どもには考えもつかぬ策と感心しておりますが、果たして松平元康様はそのように芝居をしてくれますでしょうか。」
 と言うと、杜若は藤吉郎の言った言葉を聞いて、一つ頷いてから、
「はい、きっとわたしが言ったとおりになさいます。まずわたしが殿の言葉として伝えるのですから、松平元康は応じると思います。殿、私が確かに殿の命を受けた者だという証になるものを何かくださいませんか。」
「うん」
 と言って信長が腰に差していた脇差しを抜いて杜若に渡した。両手で頂くと大切に抱いて、
「ありがとうございます。」
 と礼を言って話を続けた。
「実は、松平元康殿は自分の手で今川義元を討ち取りたいと思っているはずです。そうした松平元康殿にとっても、水野信元を緒川城に止めておくことになる、今川義元の沓掛城入城は都合がいいのです。
 今川義元が刈谷城から大高城に入る場合は、水野信元が随行します。これは大高城で今川義元を闇討ちにするのに邪魔だからです。ですから今川義元が沓掛城にくることには、松平元康殿は力を尽くすはずです。
 さあ、これで今川義元は沓掛城に来ます。では、次に沓掛城から大高城へ移動する今川義元を討ち取るにはどうするかです。いかがですか。」
 梁田政綱が地図を見ながら独り言のように話し出した。
「沓掛城から大高城までか、ほぼ二里(8キロメートル)、一時(2時間)程度の道のりですな。さて、どこで今川義元を・・・。あれ、これは・・・。」
「どうしましたか。」
 と杜若に訪ねられた梁田政綱は指で地図をなぞりながら言った。
「はい、攻撃すべき場所を考えていて気づいたのですが、沓掛城に近いところで襲ったのでは、沓掛城に逃げ込まれてしまいます。同じように大高城に近いところでは大高城に逃げ込まれてしまいます。沓掛城から大高城までは二里(8キロメートル)ほどしかありません。どう考えても沓掛城から大高城までの真ん中、この桶狭間しかありません。」
「そうです。攻撃地点は桶狭間です。」
 杜若が強い口調で言い切った。
「お方様」
 今度は木下藤吉郎が言い出した。
「はい、どうぞ藤吉郎殿」
「攻撃地点が桶狭間であることは分かりましたが、その攻撃できる範囲はごく狭いものとなります。
 梁田様のおっしゃったことを考慮すると、両方の城に逃げ込まれないで攻撃できる範囲は、せいぜい桶狭間を中心に半里(2キロメートル)もない範囲です。
その範囲なら行軍している今川義元は四半時(30分)もかからずに通りすぎてしまいます。攻撃できる機会はたったの四半時(30分)なのです。」
 と木下藤吉郎が話していると
「しかもですぞ、わたしは殿に連れられてあちこち走り回ったので、桶狭間のあたりはよく存じております。丘になっていて谷筋がいくつかあって少しは身を隠せますが、丘からは丸見えです。また、丘は裸地が多く、背の低い灌木しか生えていません。早く着いてしまったら軍勢を隠す場所などはありません。 
 ですから待ち伏せすることは不可能です。無論遅ければ通り過ぎてしまいます。」
 梁田が首を横に振りながら言うと、木下藤吉郎が続いて言った。
「信長様が軍勢を集結しておける場所で桶狭間に一番近いのは、鳴海城の付け城の中島砦と思われます。その中島砦から桶狭間までは一里(4キロメートル)近くあります。一里(4キロメートル)先から、出撃し、桶狭間を通過する今川義元を撃つ、早すぎても、遅すぎてもならない、与えられた時間はわずか四半時(30分)これは・・・」
「不可能です。さらに中島砦から桶狭間の間には必ず見張りがいます。見つかったら今川義元に逃げられてしまいます。これはもう、馬を走らせたままで、飛んでいる鳥を撃ち落とすと同じです。これができたとすればまさに神業です。」
 梁田政綱がまくし立てた。
 聞いていた杜若が二人を諭すように言った。
「そうね。お二人が言うように、できそうにもないことだわね。神業とおっしゃったけど、そのとおりです。でもできそうもないことを、神業のごとくなし遂げたならどうでしょう。
 とてもかなわないと誰もが思っている相手を、神業のごとく打ち倒すのです。殿の威を示すのです。
 さすれば皆は殿を畏怖し、畏敬する。これこそが先ほど申し上げた此度の戦の真の目的なのです。」
 杜若は自分の口調が強くなったことに気がついたのか、少し間を開け、ゆっくりと話しを続けた。
「よく聞いてくださいね。一つずつ説明していきます。まず分かりやすいことからお話しします。見張りのことです。
 今川義元の道案内と見張りは土地のことをよく心得ているということで、当然沓掛の者が勤めることになると先ほど申しましたね。沓掛の我が近藤家では今川義元の道案内を勤める者、城の守りに残す者等を考えると、見張りに割ける人数はほんの数名しかいません。だから、近在の土地に詳しい者を雇うことになります。沓掛の家臣は分かれて、その監督をすることになります。
 雇う者の手配をお願いするのは、殿もよくご存じの問屋(流通運送業)の尾張屋宗右衛門さん。殿と遊んでいらした頃は宗太さんと言いましたね。その宗右衛門さんの息のかかった者たち、つまり織田方の者が見張り人になります。
 そして機を見て、沓掛の家臣を捕らえてしまうのです。さすれば見張りは逆に殿のための見張りとなり、逐次今川義元の動きや位置をしらせます。」
「うっ」と木下藤吉郎も梁田政綱も言葉を失った。
「杜若は尾張屋宗右衛門を知っておったのか。」
 信長は懐かしそうに言った。
「はい、懇意にしていただいています。若い頃の殿のことも聞かせていただきした。」
 梁田政綱が、信長と杜若の話におそるおそる割って入って、
「あのう、お父上の近藤景春様はご存じないのでしょうね。」
 と言いにくそうに聞いた。
「無論何も知りません。沓掛の家中の誰一人として知りません。わたしは信長様に嫁ぐと決めたときから、すでに沓掛の者ではありません。」
 杜若の悲壮とも思える決意と気迫に、梁田政綱は何も言えなかった。
 杜若は表情を元に戻すと話を続けた。
「次に馬を走らせたままで、飛んでいる鳥を撃ち落とすとおっしゃったけど、この鳥が木の枝に止まったまま動かないとしたらどうかしら。近づいて撃ち落とせばいいのだとしたら可能なことよね。今川義元を桶狭間に止めておけばよいのです。」
「えっ、今川義元が桶狭間に止まるなんてことはありませんぞ。沓掛城から大高城までたったの二里(8キロメートル)、一時(2時間)程度の行軍です。たった半時進んだだけで隊列を止めて休むなどということはありますまい。さっさと大高城に入った方がいいと誰もが思います。
 それに、大高城の付け城攻撃は明け方でしょう。付け城が落ちてから今川義元は出発するはず、午前中に大高城に入り、次の攻撃の命令を出すはずです。桶狭間なんかで休んでいては、日は高くなり、ますます暑くなります。やはり桶狭間では止まるはずがありません。」
 と梁田政綱が言うと
「梁田殿、よく聞いていてください。わたしは『止めておく。』と言ったのですよ。」
 と杜若が少し強い口調で言った。
「あっはは、梁田め、杜若に叱られおった。まるで寺子屋のようじゃ。」
 とおもしろそうに信長が言うと、梁田政綱が
「そうです。教えていただいています。殿はいつも説明してくださらない。お方様の方がよくわかってよろしい。」
 と言うものだから、木下藤吉郎がまた梁田政綱の袖を引いた。
「梁田に言われてしもうたな。よし、二人に教えてやろう。松平元康にもう一芝居打たせるのさ。なあ杜若。」
 信長は楽しそうに、杜若の顔をのぞき込んだ。
「殿、教えてはだめです。」
 杜若は信長をにらんだがすぐにほほえんだ。
 さっきからじっと考えていた木下藤吉郎が言った。
「松平元康殿に今川義元の行軍を止めさせると言うことですね。松平元康殿は大高城の付け城を落とした後、三河勢と共にそのまま大高城に残っていることになります。さすれば、まず大高から桶狭間にやって来て。そこでどのような芝居をして今川義元の行軍を止めるかですね。」
「殿が松平元康殿の名を上げられましたので、わたくしがもう一人の名を言いましょう。それは緒川城にいる水野信元です。」
 と杜若が言った。
 すると木下藤吉郎が自信なさげに
「松平元康が水野信元を連れてきて、今川義元に桶狭間で会わせると言うことでしょうか。たとえば功を焦って動いたことを詫びさせるとか言って、そうすれば会見の間、桶狭間に今川義元を止めることができますが。しかし・・・。」
 と言い出したが途中で考え込んでしまった。
「そうね。おおよそはそれでよいのですが、少し違います。藤吉郎殿も気づかれたように実際に水野信元を連れて来て、今川義元に会わせることはできません。なぜなら、松平元康殿は今川義元と水野信元にそれぞれ違うことを言っているのすから。そこで、今川義元には桶狭間に水野信元を連れてくるから会ってくれと頼み、待たせるが、松平元康は水野信元を連れては来ないし、自分も戻ってこない。
 つまり、今川義元は桶狭間で、来ることのない松平元康殿と水野信元を待つことになります。これが『止めておく。』ということです。そして、現れるのは、なんと思いも寄らない敵の織田軍だったというわけです。
 大高城に戻った松平元康殿は、三河勢を連れて岡崎城に向かう。これで松平元康殿も卑怯な主殺し、義父殺しの汚名を受けずに、岡崎城に入場できます。」
 杜若の説明が終わると。
 梁田政綱が
「ふう、なんともはや、なんといっていいやら、よくぞそのようなことを・・」
 しきりに感心している。
 だが木下藤吉郎は納得がいかないというように言った。
「しかし、今川義元は松平元康殿の頼みを聞いて、桶狭間で水野信元に会うことを認めるでしょうか。大高城で会えばいいだけのことなのに、わざわざ連れてくるのを待つなどということを今川義元が認めるとは思えません。」
「そうね。人がどう考えるか、またどう思うかを説明するのは難しいわね。そうだ実際にやってみましょう。藤吉郎殿は今川義元役、梁田殿は松平元康役になって、松平元康が一芝居うつ芝居をするのよ。」
 杜若の提案に、まず信長が
「それはおもしろいぞ、やってみろ。」
 とけしかけた。
「芝居ですか、わたしはそういうのが苦手でして。」
 と梁田政綱が尻込みすると
「梁田殿、松平元康役は簡単ですよ。『叔父の水野信元がお詫びしたいと申しております。連れて参りますので。この場にしばしお待ちください。』と言った後は、何を言われても、ただ『大高城ではなく、この場にて』と懇願していればいいのです。」
 梁田政綱はそう言われて「叔父の水野信元がお詫びしたいと申し・・・・」とすぐに練習し始めた。案外やる気である。
「それから、今川義元がどう考え、どう思うかを理解するためにする芝居ですから、今川義元役の藤吉郎殿は考えたり、思ったりしたことを口に出してくださいね。さあ、まず松平元康が願い出るところからよ。」
 杜若が始めるように促した。

 梁田政綱は両手と頭を床につけて言った。
「叔父の水野信元がお詫びしたいと申しております。連れて参ります。この場にてしばしお待ちください。」
 しぐさ付きで、言い方もなかなかうまい。
「おお、うまいぞ、梁田。」
 と信長がちゃかすが、杜若ににらまれてしまった。
 一方木下藤吉郎は梁田政綱に土下座されて少しどぎまぎしたが。
「勝手なことをしておいて、今さら詫びを入れたいと申すのか。しかし戦の最中であるし、ことを荒らげるのも得策ではない。しかたないから会ってやるか。では大高城に着いたときに会ってやろう。」
 と思ったことを含めて言葉にした。
「お会いしていただけるとは、誠にありがたく思いますが、大高城ではなく、この場にてお願い申し上げます。」
 梁田政綱の松平元康役が板に付いてきた。
「大高城はもうすぐであろう。そこで会えばいいであろう。」
「いや、大高城ではなく、この場にてお願い申し上げます。」
「うむ、なぜじゃ、会ってやると言っておるのに、大高城ではなぜいかんのじゃ。大高城とこの場とどう違うというのだ。」
 と今川義元役の木下藤吉郎が考えていると
「お叱りを受けるなら、大高城でなく、この場にてお願いいたします。」
 松平元康役の梁田政綱がアドリブで言った。
「ううん、大高城とこの場とはどう違うというのじゃ。さては、今ここにはわしの本陣の者しかいないが、大高城には鳴海城の後詰めのために三河勢が集まっているという違いがある訳か。
 水野信元は自分の叔父である。その叔父の勝手な行動を見逃したことを、三河勢に知られてしまうことを恐れているのであろう。
 もともと刈谷城の水野信元は自分の妹を岡崎城の松平に嫁がせたにも関わらず、三河を裏切って織田についた、この度鳴海城が我が今川方になると、今度は織田を裏切ってこちらに付いた。三河勢も水野を決してよく思っていない。
 その水野信元が松平元康の叔父だと言うことで勝手な行動を取ったとあれば、そして松平元康がそれを見逃したとあれば、三河勢は反感を持とう。指揮を任されている松平元康にとっては、このことを恐れ、この場でと願っているに違いない。さて、どうしたものよな。」
 と今川義元役の木下藤吉郎が言い終わると。
「台詞が長いぞ、藤吉郎どの」
 ずっと平伏したままだった梁田政綱が体を起こした。
「これ」
 と杜若にしかられて、梁田政綱はまた平伏して言った。
「何が、『どうしたものよな』だ。今川義元様だって、この場で水野信元に会って、水野とわたしを好きなだけ叱責した方がいいだろうに。大高城でやれば、三河勢の士気は削がれることになり、今から始める戦に支障がでることぐらい分かるだろう。わたしの水野に対する監督不行届を責めれば、その松平元康を大将にしたあなた自身の沽券に関わることになりませんか。
 だから今川義元様にとっても大高城でなく、この場で会う方が賢明ですぞ、ここで休憩でもして待っていなさい。信長様がどっと現れたらびっくりして床几から落ちるでしょうね。」
 梁田政綱の饒舌ぶりに、聞いていた3人はあっけにとられて、しばらく間が空いた。不審に思った梁田政綱は顔を上げて言った。
「あのう、心に思ったことも言葉にせよとのことでしたので」
「そう、その通りよ。すごくよく分かるわ。」
 と杜若がほめると、信長も
「そちにそのような芸ができるとはびっくりじゃ。」
 と言って、また杜若ににらまれた。
 今川義元役の木下藤吉郎がゆっくりした口調で言った。
「ならば、ここで恩を売っておくのも得策であろう。尾張攻撃が成功しても、岡崎城に戻してくれとは言いにくかろう。恩着せがましく許してやろう。お前はわしの娘婿であったのう。婿がこのように土下座してまで頼むことであれば、聞かぬわけにはいかんな。よし、待っていてやるからこの場に水野信元をつれてこい。休憩じゃ。」
 芝居を終えた二人は口々に
「お方様のおっしゃったようになります。」「絶対そうなります。」と言い合った。
「それに、少し気になっていたことがあったのですが、実は、沓掛城の軍議の場で今川義元が水野信元のことを言い出さないかと思ったのですが、今川義元の気持ちを思い描く中で、戦いの軍議の場で、皆の士気を削ぐことになることは言い出さないだろうと確信しました。」
 と木下藤吉郎が言った。
「それから、桶狭間に今川義元の戦勝祝いを土地の者と届けます。足止めの少しは役に立つかと思います。」
 杜若は満足そうに頷いて、信長を見た。信長は愛しそうに杜若を見返した。
 その時、梁田政綱が
「しかし、本当に松平元康殿は言われ通りにするでしょうか、尾張にいた頃の竹千代をよく知っていますが、子供のくせに頑固でした。自分が決めたことは頑として譲ろうとしませんでした。」
 と言い出した。
「そうね。心配なさるのは分かりますが。でも心配いりません。殿より頂いたこの脇差しがあります。松平元康殿にとって唯一譲ることのできる相手が殿ですから。それに、わたしにも打つ手があります。」
 信長は杜若の「わたしにも打つ手があります。」を聞いて、「なに」という顔で杜若を見て、何か言おうとしたが、
 それを遮るかのように
「殿、万が一、松平元康殿が桶狭間に今川義元を留めずに、勝手に大高城で討つようなことがあったなら、」
 と言いかけて、信長を見つめた。
 信長は杜若を見つめ返し、即座に、
「元康を討つ。」
 と答えた。
 杜若は満足そうに頷くと、木下藤吉郎と梁田政綱に向いて言った。
「殿の名代であるわたしの指示に従わないことは、殿の指示に従わないことです。決して許してはなりません。指示に従わない者は、反抗する者よりも遙かに危険な者です。さらに許してはならない者は、指示を自分なりに解釈し、自分勝手な行動をする者です。こうした者は殿に忠実なつもりでありながら、殿の進まれる道の障害にしかなりません。」
 「わかっておる。たとえ元康とて、わしの指示に背けば許しはしない。大高城にかけつけ即座に討ち取る。これでよいか、杜若。」
 信長は杜若を引き寄せ、遠くを見つめるようにして話し始めた。
「わしは、今の世の大きなうねりを感じるのだ。権威や権力、身分やしきたりといった世の理が、人々を縛り付けておる。だが、今や縛り付けられてきた人々が身をよじってその縛りを解こうとしている。
 もはやこの古い世の理の中に収まりきれない人々のうめき声がわしには聞こえる。わしはこの古い世の理を武によって打ち砕き、新たなる世をつくる。天下布武じゃ。
 尾張で始めた楽市楽座を見てみよ。座を支配していた寺社が反発し、楽市では今まで利益を得ていた者が抵抗した。その中には我が家臣も多くいたぞ。
 しかし領民は違っていた。かれらは待ち望んでいたかのように受け入れておる。百姓、職人、商人の別なく、おのおのが工夫することで物産はあふれ、市は活気に満ちている。人々の躍動的で楽しげな暮らしぶりがわしに勇気を与えてくれる。
 これは我が領地の者どもだけではないぞ、楽市楽座に吸い寄せられるように遠国からも人々が集まってきおる。
 その者たちが運んでくる話もおもしろいぞ。河内の堺の商人どもは、南蛮との貿易で財を成し、自分たちだけの町を作っているとか、西国大名の中にはバテレンとの交易のためにわざわざ異国の神に宗旨替えする者さえいると聞く。そのバテレンどもは我らが想像もつかない遙か彼方より来ているとのことじゃ。いや我が日の本の者とても、ルソンへシャムへと海原を越えて進出しているぞ。今、この世は大きくうねっておる。
 わしの天下布武の戦いは、大名との戦いだけではない、人々の内にある古い理との戦いでもある。それ故この戦いは、不条理で理不尽なもの、時として非道で非情なものとなろう。だが、この阿修羅のごとき戦いが我が進む道じゃ。
 わしの指示を理解することは難しかろう。だが、たとえ理解できずとも違えずに果たす者だけが、わしに従うことのできる者だ。新しい世ができれば、ゆっくり説明もしよう。話も聞こう。だが今はその時ではない。」
 信長が話を終えると、杜若は大きく頷き、木下藤吉郎と梁田政綱に、
「おわかりですね。では、中島砦から桶狭間までの進軍路の確認を、尾張屋宗右衛門さんには見張りのことを、その他必要なことは任せます。すぐに手配しなさい。よろしくお願いしますよ。」
 と指示した。
 木下藤吉郎と梁田政綱は
「かしこまりました。」
 とまるで杜若の家臣のよう平伏して答えた。
 杜若は信長の顔を見ながら木下藤吉郎に言った。
「吉蔵さん、今夜は殿と過ごします。沓掛には曹源寺に泊まると伝えてください。明日の昼頃に駕籠をお願いします。」
「はい、承りました。」
 杜若に答えた木下藤吉郎の目が潤んでいた。

 木下藤吉郎と梁田政綱が曹源寺での杜若とのことを思い起こしていたとき。小屋の戸がたたかれた。信長様がお呼びだと言う知らせだった。二人は小屋を出て信長のもとへ駈けだした。
         
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1 桶狭間の戦いの謎
2 戦い前日
3 戦い当日
4 近藤景春の回想 
  「拳を突き上げる信長」
5 木下と梁田の回想
  「信長と杜若の再会」
6 大高城の松平元康
7 木下と梁田の回想(戦い後)
  「信長の戦略」
8 木下と梁田の回想(戦い後) 
  「杜若の策」
9 帰城した景春と杜若
10 信長勝利直後
11 一ヶ月後の岡崎城の元康
12 一年後の景春の隠居所


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