不意に虫の声が消えた。不思議に思っておさきが戸口に目をやると、戸ががたがたする。
「おとうか。」
おさきは戸口に駆け寄ると戸を開けた。
そこにはざんばら髪のふんどし一つの裸の男が立っていた。
「きゃー。」
とおさきは後ろに飛び退いた。お婆もおさきの「おとうか。」の声に立ちかけたが、その男を見て腰を落とした。するとその男は家に入り込むと、いきなり土間に土下座して言った。
「おさき、おっかあ、すまねえ。アオを売った金を落としてしまっただ。」
「おとうか、どうしただ、そんな格好で。」
駒蔵だと気がついたおさきが男に近寄って言った。
「すまねえ。すまねえ。」
男は顔を土間にこすりつけて謝るばかりである。
お婆もようやく駒蔵と分かって、近くにあったほうきを手に取ると土間に下りてきて、
「金を落としただと、こんなに遅くなって、どこぞで飲んで、おしろい臭い女にでもやっちまったんだろう。このろくでなし。」
ほうきを振り上げた。
「お婆待って、おとうの様子も普通じゃないよ。おとう何があったか話してごらんよ。」
と言うおさきの声にようやく顔を上げた駒蔵は話し始めた。
「アオがよ、一番値をつけたんだ。10両という値がついたんだ、それにご祝儀の1両がついて11両になったんだ。
そしたら甚助たちが祝いをしようと行ってきたが、おら断って急いで市場を離れただ。」
「うん、一番値のこと、甚助さんの誘いを断ったこと、甚助さんに聞いたわよ。それからどうしたの。」
とおさきが先を促した。
「そうか、知ってただか、そいでよ市場を離れたとたん口が渇いてきただ。アオに一番値がついて喜んで大声を上げていたからだろうよ。
竹筒の水は芋食うときに飲んじまったし、見ると馬市のための茶屋があったので、お茶を飲もうと縁台に腰掛けたら、じじいがなんにしますかと言うから『おちゃ』って頼んだんだ。そしたら湯飲みを持ってきて置いていった。
湯飲みを持ち上げるとお茶じゃなく、酒が入ってる。じじいは耳が遠くて『おちゃ』と『おちゃけ』を間違えやがったな。換えてもらおうかと思ったが、そこまですることもないだろう、お茶代わりの一杯ならいいだろうと思って飲んだんだ。
それがよう、口が渇いてて、腹が減ってて、くーと体に染み渡るんだ。
アオも一番値をつけ、甚助たちの誘いも断った。このまま帰ればおさきやおっかあがさぞ喜ぶだろうと思ったら、嬉しくなってよ、もう一杯頼んだだ。そしたらもう一杯だけ、これが最後の一杯ってことになって。そんでもってなあ・・」
「なにもわしらを持ち出すことはなかろう。まったくお前らしいわ、いつもお前は・・」
と言うお婆の言葉を遮って、
「それからどうしたの。」
とおさきが先を促した。
「どれだけ飲んだか、いつのまにか寝ちゃったようで、目を覚ましたときは暗くなっていてよ、びっくりして起きただ。
そうだ金は大丈夫かと、帯の所を触るとちゃんとあった。よしよしと思ってお金を払った。一両出したら茶屋のじじいはびっくりして、こんな大きな金出されても困るとか言っていたが、どこかで両替してきて、一分銀3枚と二朱銀7枚と一朱銀10枚をつりにくれた。
おらはつりをきちんとしまって茶店を出たんだ。暗くなってしまって、おさきやおっかあが心配してるだろうと思うと、早く帰らなくちゃと思って八つ橋を渡ることにした。」
「ええ、八つ橋は橋が壊れていることが多いから、通っちゃだめだと言ったの に。」
とおさき。
「すまねえ、やっぱりお前の言ったことを聞いていればよかったんだが、月が出て結構明るかったから。」
駒蔵は頭を下げて言った。
「それからどうしたの。八つ橋を通ったのね。」
「そうなんだ、八つ橋の橋を渡りかけると、橋の野郎がやけに揺れやがる。あの橋は板が互い違いに架かってるんだが、それが揺れるんだ。」
「何に言ってんだ。お前が酔ってるせいだろう。」
とあきれ顔でお婆が言った。
「まあ、そうかもしれないが、おらは落ちないように気をつけたつもりだったんだが、体が傾いて、川に落ちてしまった。あわてて橋の杭にしがみついて足をばたばたさせたら、足が川底に触れた。
あれっと思って足をつけて立ち上がると、なんと川の深さは腰ぐらいしかない。なんだと安心したが、そうだ金は大丈夫かと帯の所を触ってみると、ない、ない、川に落ちたときに、ばたばたしたときに落としたに違いない。
重い小判だから流されたりしないだろう、近くにあるに違いない。川を見ると少し前方の川面が黄金色に光っている。あんな所にあるぞと思って、水の中を進んで光っていたところを足で探ったが砂しかない。
あれないぞと思っていたら、もう少し前が光っている。ああ場所が違ったかと思って前に進みかけると、ずぼっと体全体が川の中に沈んでしまった。」
「深みにはまったのね。」
と息をのみながらおさきが言った。
「おらは水を飲んで苦しくって手足をばたつかせた。そのとき手に芦の茎が触れたので必死に握ってひっぱって、ようよう岸にはい上がった。」
「それでこんな格好になって帰ってきたのね。」
とおさきが言うと、
「いや、話はこれからだ。」
と土間にあぐらをかくと駒蔵は話を続けた。
「岸に座り込んで川面を見ると、川の真ん中が光っている。あれっと思ってよく見ると」
「ばかが、おっ月さんが川に映っているだけだろうが。」
と、お婆。
「そうおらも気がついた。おらは本当に馬鹿だと思った。おさきやおっかあの、酒飲むな、八つ橋通るなと言う言葉を聞かなかったばっかりに、大切な金をなくしてしまった。おさきやおっかあにあわせる顔がない。いっそ死のうと思っただ。」
「おとう」
とおさき。
「なんてばかなことを考えるんだ。」
とお婆。「それでよ、川に飛び込んで死のうと思ったんだが、さっき川にはまって死にそうになって苦しかったことを思い出して、こりゃ川では死ねんと思って周りを見ると、根上がりの松が見えた。
そうだあの松で首をつろうと思って松の所に行った。」
おさきもお婆も息を止めて聞いている。
「根が張って、その根が地面から盛り上がっている。その根に上って松の枝に帯で輪っかをつくって首をつろうと、根っこを上り始めたところが、足が滑ってひっくり返って頭を打ち付けたんだろう。気を失ってしまった。」
「まったく何をやっても間が抜けているよ。」
と悪態をつきながらもほっとしているお婆。
「それで目を覚まして帰ってきたのね。」
とおさき。
「いや、それがなあ、目を覚ましたらもう朝だった。」
「何寝ぼけたこと言ってるだ。ほら後ろの戸の外を見てごらん。まだ夜だぞ。」
と言うお婆の言葉で、駒蔵が後ろを振り向くと、開けっぱなしの戸口の外は暗かった。
「えっ。」
と駒蔵は立ち上がると戸口の外を見た。満月で結構明るさはあったが決して昼間ではない。
「そんな・・」
と言いながら駒蔵は土間に座り込んだ。
「間抜けが、頭を打って、昼も夜も分からんようになっちまったか。」
とお婆があきれて言うと。
「お婆、おとうの話を最後まで聞こうよ。おとう、あったことをそのまま話してくれればいいのよ。」
とおさきは優しく駒蔵を諭した。気を取り直した駒蔵が話した話はとても奇妙なものであった。
駒蔵が目を覚ましたとき、外は明るく昼間であった。一晩気を失っていたのかと思っていると。
「これ、そこなる百姓、わらわは歌を詠んでいるのじゃが、上の句はできたが下の句が思い浮かばないのでおじゃる。何かよい知恵はないものでおじゃるかのう。」
と話しかけてくる者がいた。
その者の格好と言ったらまるで三月節句の雛飾りの内裏びなのようで、言葉も「おじゃる」などとよく分からない。手には短冊と筆を持っている。
「よい知恵はないか」と言われても駒蔵は字も書けない。聞こえなかったふりをして周りを見ると、八つ橋の橋の辺りにカキツバタが群れになって咲いている。
えっ、カキツバタは春の花、今は秋になる頃なのに。「春、春になっている。」
と駒蔵がびっくりして叫ぶと。
「おっ、はる、はる・・はるばるきぬる、ほほほなかなかよろしい。」
と男は短冊に書き出した。
駒蔵は何のことか分からなかったが、2度も死に損なった。もう死ぬのをあきらめて帰ろうと思い、立ち上がろうとしたとき、自分が裸足であることに気づいた。
川に落ちたときわらぢも、足袋も脱げてしまったのだろう。女房おとしとの婚礼で履いた足袋をなくしてしまった。
「足袋が」
と思わず叫んだ。
するとあの男はそれを聞いて、
「うん、うん、たびか・・」
としばらく考え、
「旅をしぞ思ふ。できた。できたでごじゃる。そちのおかげでごじゃるよ」
と駒蔵に向かって言った。駒蔵は何のことやら分からず。
「へー」
と答えた。
駒蔵も興に乗って話を続けた。
「そうじゃ、そちのおかげで歌ができた。お礼をしよう。あれをお前に礼としてさずけるゆえに持ち帰るがよかろう。」男は水たまりを指さした。駒蔵が何かと思って見ると、その小さな水たまりの中に、水たまりからはみ出して、大きな鯉がぴちぴちはねている。
駒蔵は水たまりにのところに行った。見たこともないほどの大きな鯉だった。もう一匹いた、鯉かと思ったがふつうの鯉ほどもある鮒だった。
アオを売ったお金を持って帰るはずが、なくしてしまった。手ぶらで帰るよりはこの鯉と鮒を持って帰った方がいいだろうと駒蔵は思った。
「へい、いただきます。」
と駒蔵が頭を下げながら言うと、
「今度は川に落とすでないぞ。」
と言って、駒蔵が頭を上げたときには男はいなくなっていた。
さて、どうやってこの鯉と鮒を持って帰ればいいのか考えた。着ている着物は濡れたままで冷たい。そうだこの着物を脱いで着物に包んで運ぼうと考えた。着物を脱いで広げて、ぴちぴちはねている大きな鯉を両手で持ち上げた、重かったが鯉はぴくりともしなかった。「まな板の鯉とはよく言ったものだ。」と感心して広げた着物の上に置いた。鮒の方も鯉に倣っておとなしかった。
鯉と鮒を着物に包んで帯で縛って背中に担いで歩き出した。