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馬が鯉と鮒に

 



馬が鯉と鮒に

     藤 文一郎

                             

  知立市は愛知県のほぼ中央にある町である。江戸時代は東海道の宿場町の一つであった。
 その当時の町の名は今の「知立」ではなく、池に鯉と鮒で「池鯉鮒」と書かれた。歌川広重東海道五十三次の浮世絵には、馬市の様子が描かれている。
 宿場より馬市の方が知られていたのであろうか。現在町の東側に旧東海道の松並木が残っているところがあり、そこに馬市の石碑が建っている。
 この馬市は主に4月末から5月はじめにかけて、近在近郷で育てられた馬が集められ売買された。

さてその池鯉鮒の宿から北へ1里(4キロメートル)ほど行った所に駒場村があった。名の由来は領主の馬場があったからであるが、そのためかこの村では馬の飼育が盛んで、各農家で馬が飼育されていた。育てられた馬は池鯉鮒の馬市へ出されていた。

 その村の外れに貧しい1軒の農家があった。薄暗い部屋の中ではお婆が糸を紡いでいる。

「なあ、おさきや、とうとう米もなくなってしまった。」
 とそのお婆が孫娘に言った。

 おさきと呼ばれた娘は13歳ほどで、先ほどから馬の背中を藁でこすってい
る。馬は目を閉じて気持ちよさそうにしている。馬は家の中の土間の一部で飼われていて、家族同様に大切にされていた。
「しかたないわね。お隣の甚助さんにお願いしてみようか。」
 と馬の背をこする手を休めずに娘が答える。
少し間をおいてお婆が
「なあ、おさきよう、その甚助さんから聞いただが、あした池鯉鮒の馬市が特別にあるそうな、いつもは春だけだが、今年は秋にも馬市をやることになって。それでよ。」

 お婆は糸紡ぎの手を止め、一つため息をすると、顔を上げておさきを見ると
言った。

「なあおさき、アオを馬市に出してはいかんかな。甚助さんも自分とこの馬を出すそうな。
 実はなさっき、もう甚助さんのところに米を借りに行ったんだ。そしたら
『いつも借りてばかりで、返したことなんぞないじゃないか。おおそうだ今年は特別にあす馬市がある。おらもうちの馬を出す。おまえんとこの馬ももう出せるだろう。おらが一緒に売ってきてやるがどうだ。そうすりゃ今までの米代も払えるしな。よう考えて今日中に返事してくれ。』
 と言われただ。おめえがこないしてかわいがっているアオを売るのはかわいそうなんじゃが。」
「いいよ。お婆。」
「売るために育てているんだから、売るのは当たり前じゃないの。来年の春のつもりでいたけれど、今売れるならそうしようよ。」
 と相変わらず馬の背をこすることをやめずに答えた。
「すまんな、じゃあ、今からでも甚助さんにお願いしてこようかね。」
 とお婆が立ち上がると。
「ちょっと待った。」
 部屋の奥から大きな声がした。
 声の主はおさきの父親で、お婆の一人息子の駒蔵である。この駒蔵はぐーたらでなまけもので働きもせずに、いつも家の中でごろごろ寝ている。村の人からは「駒場村の駒蔵なんて大きな名前付けやがって、間抜けのあいつには「ま」ぬけのコゾウで十分だ。」ということでコゾウと呼ばれている。

 駒蔵もはじめからこうだったわけではない、おさきの母親のおとしが生きていた頃は、まじめに田んぼや畑で働いていた。ところがおさきが八つの時、母親のおとしは風邪をこじらせてあっけなく死んでしまった。以来お婆が母親代わりになっておさきを育ててきた。
 ところが気落ちした駒蔵は、それ以来働こうとせず、家でごろごろしていて、酒があれば酒を朝から飲んで酔っぱらっていた。そうして5年がたった。
 お婆もはじめの頃は、女房を亡くしたんだからしかたないと思っていたが、1年たっても相変わらずなので何度もしかり、時にはほうきでたたくこともあったが、その度に幼いおさきが泣いて止めに入った。
 しかし2年たとうが3年たとうが駒蔵は家でごろごろしているか、酒があれば朝から飲んで酔っぱらっていた。もうお婆もすっかりあきらめていた。この5年の間に少しばかりあった田畑も売ってしまって、今ではお婆の糸紡ぎとおさきの庄屋の子守とで何とか食いつないでいた。

「なんで甚助に頼むんだ。おらがいるじゃないか、おらが行くだ。」
  部屋の奥で寝ていた駒蔵が起き出してきて、お婆とおさきに向かって言った。
「おまえなんかに頼めるものか。いいかそもそもこのアオを、何で飼うように
なったか分かっとるか。
 よう聞けよ。おまえが働かんから食うことができんようになって、しかたなく大切な田畑を売った。そしたら、その金でおまえが酒を飲み出した。せっかくの金が全部酒に変わってしまわんように、子馬を買っただぞ。
 小さかったおさきが、それはそれはよく面倒を見てここまで育てただ。それをそんなおまえが売りにいくなんて絶対させん。」

「だけんどよう、甚助に頼めば手数料がどうのこうのとごまかされるにきまっとる。」
「おまえこそ、売った金でまた酒を飲もうとしているだけじゃろう。」
「アオはおさきが精魂込めて育てたことはおらだって分かっている。アオを売った金で飲んだりせん。それにおらも若いときは、何度も馬市に行って馬市のことはよくわかっとる。」
 おさきが何か言いたげだが、二人の言い合いがいつものよう続いている。
 その時
「ひひーん」
 と大きな声でアオが鳴いた。
 お婆と駒蔵がびっくりしてアオを見た。アオの背中を拭いていた藁を置いておさきが、二人に向かい、

「小さな子馬の時から面倒を見てきた。兄弟のいない私にとってアオは弟のようなものだ。でも売るために育ててきたのだから、手放さなくてはならないことはとうに承知している。でもせめて他の人ではなく身内に売ってきてほしい。おとうにアオを頼みたい。」
 ときっぱりと言った。
「分かったよ。おさき。駒蔵も今のおさきの言葉を聞いたんだから、親としてもちゃんとやるだろう。なあ駒蔵。」
 とお婆は駒蔵を見ていった。
「おうおう、そりゃちゃんとやる。おとっつぁんに任せておけ。」
 駒蔵は胸をたたいて言った。
 お婆はその大げさな駒蔵の様子にため息をつくと、また糸紡ぎの前に座って先ほどと同じように糸紡ぎを続けた。
「お婆、アオと八幡神社へ行ってくる。アオがいい人に買ってもらえるようにお願いしてくる。」
 おさきはアオを外へ連れ出した。

 お婆が
「すぐ日が暮れるで気をつけて行ってこい。」
 と声をかける。あんなにいつも一緒だったアオと分かれるのはさぞやつらかろうと、お婆はおさきが不憫でならなかった。
「なあ、おっかあ、明日早いからおら寝る。でも、腹減った。なんか食い物ないだか。」
 おさきやお婆の気持ちが分かっているのかと言いたくなるようなのんきな駒蔵。
「さっきまで昼寝していたくせにもう寝るだか、ほんとにおまえという者は。」

 とお婆はため息をついてから、
「さっきも話したようにもう一粒の米もない。じゃがおさきが庄屋様で子守をしたときにいただいた芋があったから蒸かしてちゃぶ台においてある。」
 と言った。
「芋か、どれどれ」
 駒蔵がふきんをとろうとすると

「四つしかないで、食べるのは一つだけじゃぞ。残りはおらとおさきの分、それとおまえの明日の弁当じゃ。もうこれでうちの中の食べ物は全部なしじゃ。おまえがお金を持って帰って来てくれんと飢え死にするしかないで、明日はほんとに頼むぞ。酒だけは・・」
 とまたお婆の説教が始まりかけたので、駒蔵は芋を食べながら寝たふりをした。
 お婆は
「まったく・・」
 と一言つぶやくと、またため息をついた。

                                                   

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