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  次の日の朝、馬市の日である。いつもなら絶対に起きてこない駒蔵が目を覚まして起き上がった。
「おとう、おはよう。アオをきれいにしておいたから頼むね。」
 暗いうちから起きて、アオの最後の世話をしていたのだろう。秋口に入り、朝夕は肌寒さを感じるようになってきていたが、おさきは噴き出す汗をぬぐいながら言った。
「おお、任せとけ、高く売ってきてやるよ。おさきの大切なアオだからな。」
 と答える駒蔵に、お婆が、
「これ履いてけ。」
 と足袋を渡した。
「足袋じゃないか。」
 といぶかる駒蔵に、お婆がしみじみと言った。
「覚えているか駒蔵、それはなおまえがおとしさんと祝言を挙げるとき履いたものじゃ。
 紋付き袴は庄屋様に借りたが、せめて足袋だけはと買って履かせてやったんだ。この足袋には、おとしさんの思いがこもっていると思え。
 アオが売れたらまっすぐに帰ってこい。馬市は昼前には終わるはずじゃ。酒が飲みとうなっても我慢して帰ってこい。いいか頼んだぞ。」

「お酒は、おとうが帰ってきたら私が買ってくるわ。うーと飲ませてあげる。そんなに高くなくてもいいから、アオに優しくしてくれる人に譲ってあげてね。
 あっ、それから早く帰ろうとして八つ橋を通らないでね。橋が壊れていることが多いから危ないよ。近道なんかしなくていいから、ちゃんと帰ってきてね。」

 駒蔵はお婆から渡された足袋を履き、お婆やおさきの言葉に殊勝に頷いた。弁当の芋と竹筒の水筒を受け取ると、アオのくつわを取って池鯉鮒の馬市へ向かった。
 お婆とおさきは家から見えなくなるまで見送った。
「お前が付いていけばよかったかのう。」
 とお婆が言うのに、
「馬市は荒くれ者が多いそうだから、わたしなんかじゃまになるだけよ。」
 とおさきが答え、アオの幸せを願って手を合わせた。

  昼を告げる寺の鐘がなった。もう帰ってくるだろう。おさきは我慢できずに
「迎えに行ってくる。」
 とお婆に言って、村はずれまで駆けていった。しばらくすると池鯉鮒の方から村の人がばらばらとやってくる。その中に甚助さんがいた。おさきは甚助さんに駆け寄って、
「うちのおとうを知りませんか。」
 と聞いた。
「ああコゾウか、そうそうお前んとこのアオに一番値がついたぞ。それでよ、コゾウに祝いをしようぜと誘ったんだが、せっかく誘ったのに断ってどこかに行っちまやがった。」
 そう言ってさっさと行ってしまった。

 しばらくその場で待っていたが、もう誰も来なくなった。
 おさきは家に帰ると、甚助から聞いた話をお婆にしたあと、
「池鯉鮒まで行ってみる。」
 と言い出した。池鯉鮒までは1里、急いで歩けば1時間、まだ日は高い。
「暗くなる前には帰ってくるんだよ。」
 のお婆の言葉を半分聞いて駆けだした。

池鯉鮒の宿に着いて、おさきはまず馬市があったところに行ってみたが、すでに片付けられていて、ほとんど人はいなかった。
 いる人に尋ねてみたがアオが一番値をつけたことは知っていたが、駒蔵のことはまったく知らなかった。
 宿場の人が集まっているところ、食べ物屋、飲み屋などの店も見て回ったのだが、駒蔵のことは誰も知らなかった。
 ひょっとしたら自分が宿場を探しているうちに、帰っているかもしれないと思って、走るようにして帰り、

「おとうは帰ってきたか。」
 とお婆に聞いたが、
「いいや、帰っとらん。池鯉鮒にはいなかっただか。」
 とお婆は答えるだけだった。
「もう一度行ってくる。」
 とおさきが言うと、
「いいや、ならねえ。帰る頃には暗くなってしまう。まずは汗をふけ。」
 お婆は手ぬぐいをおさきに渡し、いつもの糸紡ぎの前に座ると言った。
「駒蔵は子供じゃない。たった1里の道、山の中でもあるまいし道に迷うはずがない。
 なんかあったんなら、おまえが宿場の中を探しているときに騒ぎになっているはずだ。
 きっとどこかの店に上がり込んで、飲みつぶれているに違いない。朝になったら申し訳なさそうな顔をして帰ってくるにきまっとる。」

「でも、宿場のお店は聞いて回ったよ。」
「いいや、おまえの入れない店もある。考えてみればあいつに任せたのが間違いだった。
 ぐーたらで酒好きなあいつが金を手にしたらどうなるか、端から分かり切っていたことだ。」

 と吐き捨てるように言うとふーんと大きなため息をついた。

お婆は黙々と糸紡ぎをしている。おさきはアオのいなくなった土間を見つめている。
 いつの間にか暗くなってきた。おさきはこらえきれずに戸口に立って外を見た。今日は満月、大きな丸い月が東の空に昇ってきている。

「おさき、ももういいだ。朝になったら帰ってくる。」
 お婆はあんどんに灯をつけた。お婆に言われて、おさきはしかたなく戸口を閉めて、床に腰を下ろした。
 虫の音が聞こえてくる。お婆の糸を紡ぐ音が単調に聞こえる。もう夜も更けてしまった。


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馬が鯉と鮒に